第5話 ②

「ああ、食った食った」

 声を上げたモリオが水筒のストローに口をつけた。

「もう腹いっぱい」

 カズマも完食したらしい。

「ごちそうさまでした」

 先ほどのように両手を合わせてお辞儀したナナも、腹を満たせたようだ。

「ごちそうさま。おいしかったかい?」

「うん、おいしかった」

 おれはおにぎりそのものより、ナナの笑顔に満たされてしまった。

 麦茶もおにぎりも、ナナはおいしそうに口にした。もっとも、おにぎりは一個で満足だったらしい。一方のおれは二個で腹八分だった。

 ふと、おれは憂いを覚え、ナナの顔を見る。

「あのさ、ナナちゃん」

「なあに?」

 ナナはおれを見返した。

「お父さんやお母さんは心配していないのかい? おうちの人は、ナナちゃんがお昼までには帰ってくる、と思っているんじゃないかな?」

 弁当を持たせなかったのだから自宅で昼食の用意をしているはずだ。

「大丈夫だよ。エリちゃんとかカズくんとかモリくんとかキヨくんとかエリちゃんとかいるし」

 などと答えてはくれたが、ナナを閑却しておいて茶まんじゅうに夢中になるようなこの四人では、なんとも心もとない。

「なあ、エリ」

 声をかけると、最後の一個を手に取ったばかりのエリが、こちらに顔を向けた。

「何?」

「ナナちゃんの家族は、エリが一緒だっていうのを知っているのか?」

「うん、知っているよ」

「そうか。……でもさ、ナナちゃんが弁当を持っていないんじゃ、まったく意味がないじゃん」

 というおれの言葉が聞こえなかったのか、エリはすぐに茶まんじゅうにかぶりついた。

 ナナは自分の両親、もしくはそのどちらかによって虐待を受けているかもしれない。猛暑であるにもかかわらずこんな幼い子供が帽子さえかぶっていない――という現状からしてネグレクトの可能性もある。

「ナナちゃん、お父さんやお母さんに、帽子をかぶりなさい、って言われないの?」

 おれはナナに尋ねた。

「言われることもあるけど、言われないこともあるよ」

 よくわからない答えだった。

「そうかあ。小さい子はね、暑い日は帽子をかぶったほうがいいんだよ」

「でもね、ナナちゃんの帽子って、あるのかなあ?」

「帽子、ないの?」

「わかんない」

「わかんないのかあ」

 おれは困り果てた。

「あれ?」水筒をリュックの脇に置いたモリオが、キヨシの手元を見下ろした。「キヨシ、それ、食べないのか?」

「うん」

「おまえ、またかよ」

 そうこぼすモリオはキヨシの手元から目を離さない。

 キヨシの茶まんじゅうは二個も残っていた。

「食べられないんだから、しょうがないじゃん。あとで食べるよ」

 キヨシが弁明した直後、モリオが手を伸ばした。

「だったらおれが食うよ」

「何するんだよ!」

 キヨシは抗うが、茶まんじゅうの一個は瞬時にモリオの口に運ばれ、もう一個はよりによってキヨシの足元に落ちてしまう。

「モリくん、サイテー」

 げんなりとした表情のエリも、ようやく食べ終えたらしい。

 茶まんじゅうを丸ごと口に入れたモリオは、咀嚼しながらエリを見る。

「だって……おれ……キヨシより体が大きい……たくさん食べ……当たり前……」

「もういいよ」

 肩を落としたキヨシが、静かに首を横に振った。

「おい、モリオ」カズマが言った。「まんじゅう、無駄にするなよな」

「うん……わかっている……」

 答えたモリオは口の中のものを飲み込むなり、キヨシの足元に落ちている茶まんじゅうを拾った。

「おいモリオ。それ、どうするつもりだ?」

 モリオの持つ茶まんじゅうを睨んで、おれは尋ねた。

「どうする……って、食べるんだよ」

 モリオはにやりと顔を歪め、自分の半ズボンの裾で茶まんじゅうを拭いた。

「やめておけよ」

 止めようとして立ち上がりかけた。

「いいの。モリくん、いつもなんだよ」

 エリの一言で、おれは諦める。

「そうか。なら、ご自由に」

「タカ兄ちゃん、気にしすぎ」と笑ったモリオは、拾った茶まんじゅうを一気に口に押し入れた。

「ナナちゃんは真似しちゃだめだよ」

 成り行きをじっと見守っているナナに、おれは言った。

「うん。エリちゃんにいつも言われているよ。ぜーったいにモリくんの真似をしちゃいけないよ、って」

 ナナは笑顔で答えた。

「あっ」と声を上げ、モリオが立ち上がった。「小便してくる。うんちはしないから、すぐに済むよ」

 そう言い残し、モリオは道の反対側の杉林へと駆け込んでいった。小学生の男子なら道端で済ませそうなものだが、さすがにエリの前で用を足すのはためらわれたのだろう。

 とはいえ、エリはすでにうな垂れている。

「食後の余韻が台なし……」

「でもせっかくの休憩だし、用を足したい人は今のうちに済ませておいたほうがいいぞ」

 おれのその提案にすぐに反応したのは、キヨシだった。

「カズくん、連れションしよう」

「連れションかよ」

 カズマの顔に拒絶の色が浮かんだ。

「ナナちゃん」おれは隣のナナに話しかけた。「ナナちゃんもおしっこに行っておいたほうがいいよ」

 幼くても「女の子」である。失礼と承知しつつ勧めた。

「どうしようかなあ」

 下腹部をさすりながら、ナナは小首を傾げた。

 妙案が浮かび、おれはエリを見る。

「エリ、ナナちゃんを頼むよ」

 ナナよりエリを気遣うべきだったのだ。これならば、エリはナナの用足しにかこつけて自分の小用を済ませられるに違いない。

「わかった。いいよ」

 エリはすぐに立ち上がり、ナナの手を取った。

「ナナちゃん、あたしと一緒におトイレに行こう」

「うん」

 頷いたナナが腰を上げた。

 こうしてまじまじと見ると、手を繫いだ二人はまるで仲のよい姉妹だ。

 ナナがエリを見上げる。

「エリちゃんもおしっこ? うんちするの?」

「しーっ」

 人差し指を立てたエリが、ナナの手を引き、そそくさと歩き出した。

 小川の手前――やや南側の雑木林に二人の少女が入ると、カズマが立ち上がった。

「しょーがねーな。キヨシ、行くぞ」

「ありがとう」

 安堵の色を呈したキヨシが、丸木から立ち上がった。

「タカ兄ちゃんも今のうちにしておかねーと、あとで漏らしちゃうぞ」

 モリオの入っていった杉林へとキヨシをいざないながら、カズマが言った。

「ああ。おまえらが済んだらな」

 答えたおれは、自分の荷物をリュックに入れた。

 片づけを済ませたのは、おれ以外にはエリだけだった。散らかしてある少年たちの荷物の上を、一匹のアゲハチョウがゆっくりと通過していく。

 荷物番をしつつ、せせらぎに耳を澄ました。腹を満たせたせいか、気分がよい。涼しい微風との相乗効果もあり、気を抜いたら眠ってしまうだろう。

 遠くでミンミンゼミが鳴いている。

「ぎゃあああああ!」

 それは出し抜けだった。性別や年の頃までは聞き分けられなかったが、明らかに人の絶叫である。その大きさからすると、かなり近くで発せられたらしい。真っ先に脳裏に浮かんだのは、子供たちが野犬に襲われる光景だった。

 おれはすぐに立ち上がり、周囲を見渡した。特に、子供たちがいるはずの二箇所を注視する。だが、絶叫は一回限りであり、ここに立っているだけでは声の放たれた位置を知るすべはない。

 南に十メートルほど走り、雑木林の中を覗いた。木々に覆われた暗がりの中に人の気配はない。

「エリ! ナナちゃん!」

 呼びかけたが返事はなかった。

 静寂が不安をかき立てる。

 矢も楯もたまらず、おれは雑木林の中に立ち入ろうとした。

「覗きかよ!」

 振り向くと、カズマがおれを睨んでいた。モリオとキヨシがその後ろに立っている。

「おまえら、無事だったのか」

 少なくともこの三人に異常は見当たらない。

「無事とかじゃなくてさ」カズマは怪訝そうにおれを見た。「そっちには、エリとナナがトイレに行ったはずだよ。タカ兄ちゃん、覗く気だったんだろう?」

「ばかを言うなよ。おれはロリコンじゃないぞ」

 間髪入れず否定したが、モリオとキヨシもおれを睨んでいる。

「ロリコンじゃなければ、ただの変態だな」

 モリオが言い放った。

 こんな素人コントをやっている場合ではない。

「あのな、今し方、叫び声が聞こえたんだよ。叫んだのがおまえらじゃないとすれば、エリとナナちゃん、そのどちらかか、もしくは両方、って考えてしまうじゃないか。あの二人、呼んでも返事しないし。とにかく、早く二人を捜そう」

 おれは少年たちに訴えた。

「叫び声なんて聞こえなかったよ」呆れ顔でキヨシが言った。「というよりタカ兄ちゃん、エリちゃんとナナちゃんは、すぐそこにいるじゃん」

 見ると、手を繫いだエリとナナが雑木林から出てくるところだった。

「どうしたの?」

 エリがおれに尋ねた。

「訊きたいのはおれのほうだよ。二人とも、なんともないのか?」

 問い返したおれをナナが見上げる。

「エリちゃんもね、ナナちゃんと一緒におしっこしたんだよ。でもね、エリちゃんもナナちゃんも、うんちはしなかったの」

 突然のナナの失言でエリの目が点になった。

「いいんだよナナちゃん。無事ならばいいんだ」

 おれは言い繕うとしたが、真っ赤になったエリはすでに涙ぐんでいた。

「ごめんな、エリ。もういいんだ。とにかく出発の準備をしよう」

 おれの言葉に無言で頷いたエリは、ナナの手を引いて二本の丸木のほうへと歩いていった。

 それにしても、あの絶叫はなんだったのだろうか。おれの聞き違い、というより幻聴だったのだろうか。おれは自分の精神状態に自信を持てなくなっていた。田舎でのんびりと癒やすより、病院で診察してもらうべきなのかもしれない。

「エリが落ち込む意味、わかんねー。小便やうんちなんて誰でもするじゃんか」

 モリオが小声で言うと、キヨシが肩をすくめた。

「エリちゃんは女の子なんだよ。乙女心、っていうやつだよ」

 キヨシは答えたが、モリオは首を捻る。

「何それ?」

「モリくんにはわからないかあ」

「わかるように説明しろよ」

「説明しても、絶対にわからないと思うよ」

 二人のそんなやり取りを無視し、カズマが少女たちの元へと走った。

「エリ、道の向こうの杉林で……」と声をかけたまでは聞こえたが、そこから先、カズマがエリに何を話しているのか、おれの耳には届かなかった。エリはカズマの言葉に対して黙って頷いている。

「カズマとエリって、付き合っていたっけ?」

 モリオはキヨシの脇腹を片肘で小突いた。

「今、芽生えたんだよ」

 キヨシは答えたが、モリオは首を傾げた。

 はたして目を向けると、カズマはエリとナナ、二人の少女の頭を撫でていた。エリには笑顔が戻っている。

 改めて自分の情けなさに気づかされた。おれには年相応の人生経験があるが、それらを何一つとして活かしていない。一方のカズマは、少ない経験の中から常に何かを学び、実践している。これが、脱落する人間と伸びる人間の違いなのだろう。

「おれも小便だ。モリオもキヨシも、荷物をまとめておけよ」

 そう言い残し、おれは砂利道を渡って杉林の中へと立ち入った。

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