第1話 ②

 八畳の居間で、おれは柱に背中をつけてあぐらをかいていた。エアコンのおかげで全身の汗は引いている。

「ひとまず、冷たい麦茶でも飲んでいな」

 グラスを二つ載せたお盆を運んできたのは、伊吹静枝しずえ――おれの祖母だ。白髪交じりの七十五歳ではあるが、三年前と変わらず、背筋がぴんと伸びている。もっとも、やや太りぎみなのが気がかりだ。祖母は、夫――つまり、おれの祖父とは八年前に死別しており、それ以来、独居老人である。

「うん」と返事したものの、おれは怠惰に身を任せた。

 割烹着姿の祖母は腰を下ろし、お盆を畳の上に置く。

「それはそうと……着く一時間くらい前に電話をくれる、なんて言っていたから、連絡が来るのをずっと待っていたんだよ。あんまり遅いから、貴也のスマホに電話したのに、まったく繫がらないし。お昼ご飯の支度が遅れちゃったじゃない」

「ごめん、連絡するのを忘れていたよ。それに、うっかりしてさ、スマホの電源を切りっぱなしだったんだ」

「まったく」

 ぼやいた祖母はお盆から二つのグラスを座卓に移した。それぞれのグラスに麦茶がなみなみとそそいである。氷は入っていないが、グラスの表面の結露を見れば、中身が十分に冷えていることは窺い知れた。

「そのスマホっていう機械、案外、不便なんだねえ。あたしなんか、ガラケーっていうやつでさえ使いこなせなくて手放しちゃったのに。そういえば、佐々木さんちのおじいちゃんもスマホを持っているんだけど、不便どころか、もてあましているみたいだね。あのおじいちゃん、なんのためにスマホなんて買ったんだか」

「完璧に使いこなしている人は、少ないんじゃないかな」

 言いながら、おれは座卓へとにじり寄る。

「使う側の人間がしっかりしていないと、ろくなことがないんだよ」

「そうかもね。ろくなことがない」

 おれは視線を落とし、グラスを見つめた。

 文明の利器に頼ってばかりのおれだが、スマホの管理さえできていない。おそらく、おれのような人間が世の中から放逐されていくのだろう。

 そう、おれは自己の確立などとうてい無理な、取るに足りない人間なのだ。こんな甲斐性なしでは、立て続けに就活に失敗したり、大学時代から付き合ってきた恋人の郁美いくみに振られたりするのも、至極当然である。

 郁美の笑顔が脳裏に浮かんだ。しかし、いつも隣にあったあの笑顔なのに、すぐにかすんでしまう。郁美の顔が消えた代わりに、なぜかあの女の顔が浮かんだ。「サクモト」と名乗った女だ。

「貴也、大丈夫かい? ぼーっとしちゃって」

 しわだらけの丸顔に憂いが浮かんだ。

 おれは東の方角を指差した。

「あのさ。ばあちゃん、そっち」

「そっち?」と祖母は、おれの指差したほうに目を向けた。

「うん」おれは頷き、手を下ろした。「そっちの砂利道の先に家なんてあったっけ?」

「前からあったでしょうよ。建てられたのは三十年以上前だったかな。どこかの会社の偉い人とその家族が住んでいたんだけど、十五年くらい前に引っ越していっちゃってさ。それからずっと空き家になっていて。そうしたら、去年になってリフォームの工事が始まってね。それが済むとすぐに、都会から人が引っ越してきたんだよ」

「空き家をリフォームしたのか」

 思い当たる節はあった。小学生時代の夏休みは毎年のようにここに泊まりに来ていたが、遊びに出かけた際に、何度かその家を目にしていたのである。祖母の言うとおり、確かに当時は空き家だった。

「じゃあ、貴也は砂利道のほうから来たんだね?」

「あ、いや……」

 答えに逡巡したが、あの女が祖母を知っているのなら、ごまかしたところで遅からずばれてしまうだろう。

「ここに来る途中で、サクモトさんっていう人に会ったんだ」

「そうだったの。スタイルがよくてきれいなお嬢さんだったでしょう?」

 おれは「サクモトさんっていう人」としか伝えていない。

「あの人、独り暮らしなの?」

「そうなんだよ。というか、病気がちのお母さんと暮らす予定だったらしいのよ。だけどリフォームが済んで、いざ引っ越そうとした矢先に、そのお母さん、病気が悪化して亡くなったんだって。だからヨシノちゃんは、独り暮らしなんだよ」

「ヨシノちゃん?」

「サクモトヨシノちゃんだよ」

 と答えるなり、祖母は立ち上がって戸棚の引き出しを開けた。取り出したのは、丁寧に折りたたんだ紙だった。

「引っ越しの挨拶品についていたものだけど、名前を忘れそうだったから、取っておいたんだよ」

 説明しながら腰を下ろした祖母は、紙を座卓の上に広げた。

 見れば、のし紙だった。姓は印字で、名はサインペンでの手書きである。

「下の名前はね、本人に書き足してもらったの」

 祖母はそう付け加えた。

「佐久本佳乃よしの

 のし紙に記された名前を声にしたおれは、またしてもあの切れ長の目を思い浮かべてしまう。

「親切なお嬢さんだよ」祖母は言った。「荷物を持って歩いている年寄りがいれば、その荷物を運んでくれたり……急な雨に降られて困っている人がいれば、自分が濡れてでも傘を貸してくれたり。佳乃ちゃん、川野じゃ、とても評判がいいんだよ」

「へえ。その人、おれにも親切にしてくれたんだよ」

「そうなの?」と祖母は目を丸くした。

「落としたリュックを拾ってくれたんだ」

「あんた、まだ若いのに、リュックなんて落とすのかい?」

 畳の上にほうり出してあるリュックを見て、祖母は苦笑した。

「佐久本さんの美しさに見とれて落とした」などと言えるわけがない。こればかりは、取り繕う手立てを選択してしまう。

「暑くてさ、ぼーっとしていたんだよ」

「ぼーっと、ね。ここに着いてからも、ぼーっとしているじゃない」

 祖母は言うと、のし紙を丁寧にたたんだ。

「だからさ、暑くてしょうがないんだよ」

 とはいえ、冷房は効きすぎている。こんな口実を訴えた手前、今さら設定温度は上げられない。

「冷房、効いているよ。それでも足りないんだったら、さっさと麦茶を飲んじゃいな。ぬるくならないうちにね。氷、入れたほうがよかったかい?」

 たたんだのし紙を手にして祖母は立ち上がった。

「いれなくていいよ。すぐに飲むから」

 肩をすくめて答えたおれは、麦茶を一気に飲み干し、グラスを座卓に置いた。想像以上に冷たく、空きっ腹にじんじんと染みる。

「でもね」祖母は戸棚の前で目を細めた。「ここに泊まっている間は、気張らなくて構わないんだよ。のんびりするために来たんだし、ぼーっとするのもいいだろうね。一カ月といわず、二カ月でも三カ月でもいなさい。雅夫まさおがあんなばかなことをしなければ、貴也も美沙みささんも、つらい思いはしなかったのに。ごめんね、貴也」

 そう詫びた祖母がのし紙を引き出しに戻した。

「どうしてばあちゃんが謝るんだよ。悪いのは父さんじゃないか。それに母さんだって、たぶん、もう落ち着いているよ。……でも、気にかけてくれて、ありがとう」

 感謝の意を言葉にしたが、できれば家庭崩壊の危機に関する話題は避けてほしかった。

「あたしにできることなんて何もないけど」祖母は立ったまま言った。「貴也は自由にしていいんだからね。昔みたいに昆虫採集をするのもいいかもよ」

「いやあ」おれは苦笑した。「昆虫マニアだったのは小学生のときだけだよ。虫の鳴き声くらいは今でも聞き分けられるけど、直接さわるのは、ちょっとなあ」

「そうかい? じゃあ、その辺を散歩するくらいの楽しみしかないかあ。……あ、そうそう、散歩も油断できないんだった」祖母は声のトーンを落とした。「川野でね、去年の秋頃から猪が出るようになったんだよ。今のところ襲われた人はいないけど、畑とかが荒らされちゃってね。猟友会に駆除してもらう、なんて騒ぎになっちゃってさ」

「マジ? そういえば、じいちゃんが元気だった頃は北の林で猪が何十匹もの群れを成していた、って父さんがずっと前に言っていたけど……関係があるのかな? その猪の群れが世代交代を経てあの林を縄張りにしていた、とか?」

 おれが尋ねると、いっこうに腰を下ろす気配のない祖母が、ふと、首を傾げた。

「昔だって猪はたまに出たけど、何十匹もの群れだなんて、聞いたことがないよ」

「そうなの?」

「そうだよ。うちら夫婦は若い頃、北の林の外れで畑仕事をやっていたでしょう。でも、あそこが猪に荒らされたことなんて一度もなかったよ。まあ、あの当時は、きちんとした柵があったしね。そういえば、貴也は北の林に行ったことがなかったんじゃない?」

「子供の頃、ここに遊びに来るたびに父さんに脅されていたからね」

「まさか、北の林で猪が群れを成している、なんて脅されていたの?」

「そうなんだよ。北の林は猪の巣窟だから絶対に行くな、って。もう怖くてさ、だから一度も行っていないよ。カブトムシがいそうな林だから、子供の頃のおれは残念に思っていたんだ。ていうか、あの林にばあちゃんちの畑があったなんて、知らなかったけど」

「ああ、そうだった」祖母は自嘲ぎみに笑った。「あの土地の話、貴也にしていなかったか。雅夫もいい加減だけど、その母親のあたしも結構いい加減なんだね。……北の林に、うちの土地があるんだよ」

「ばあちゃんはいい加減なんかじゃないよ。それに父さんだって、危険なところには行かないように戒めたつもりだったのかもね」

 そう言ってみたが父の肩を持つつもりはない。

「そこまで危険だったかなあ」祖母は回顧するような表情だ。「だってさ、あの林……昔は、鎮守のもり、なんて呼ばれていたとかで、ちょっとしたお祭りがあったらしいよ」

「へえ、祭りかあ。それも初耳だよ。ていうか、林なのに、鎮守の杜、なんだね」

 おれが突っ込むと祖母は破顔した。

「鎮守の林、とは言わないよ」

「そうか」

 おれも笑ったが、不意に、祖母は笑みを消した。

「でもね、あたしが嫁いできた頃には、祭りとかそういった風習は廃れていたし、ただの寂しい雑木林にしか思えなかったね。猪なんて気にしなかったけど、なんだか気味が悪くて。畑に行くときは、できるだけ林に入らないで、遠回りしたもんだよ。まあ確かに、雅夫は貴也に怪我なんてさせたくなくて注意していたんだろうけどさ。自分が子供の頃は、あの林で散々遊んでいたくせにね。利己主義、っていうやつなんだよ」

「そうかもね」

 おれは首肯した。家庭を顧みなかった父なのだ。利己主義には違いない。その父の遺伝子を、おれは受け継いでいる。

「ところで」沈みかけたおれは、話題を戻すべく口を開いた。「猟友会に駆除してもらう、なんて言っていたけど、川野で猛威を振るった猪は、今もいるの?」

 実物の猪は未だかつて見たことがないが、その脅威を知っていればこそ、気になった。

「今年の梅雨入り前に、猟友会の人たちが六匹も駆除してくれたんだよ。それで全部だったらしいんだけど」

「だけど?」

「よその土地から入ってこないとも限らないからねえ。出歩くときは十分に気をつけなさいよ。野犬が出た、なんて噂もあるからね」

「わかった」と頷いたが、何をどう気をつければよいのか、実のところ、まったくわからない。野犬はもとより猪でさえ民家の近くに現れる、こんなご時世なのだから。

「あら、そろそろお湯を沸かさないといけないね」

 立ちっぱなしだった祖母が、掛け時計を見上げた。

 おれも釣られて見上げる。午後一時半を過ぎていた。

「お昼は……」おれは祖母を見た。「そうめん、だったよね?」

 昨日の電話では、そうめんにする予定だったはずである。

「冷やし中華にするよ。貴也はそうめんが好きじゃないみたいだし」

「そんなことはないよ」

 おれはすぐに否定した。

「昨日の貴也の話しぶりでは、そう感じられたけどねえ。だったら、冷やし中華もやめにする? ほかに今すぐ作れるものといえば……」

「やめなくていいよ。冷やし中華、好きだし」

「よかったよ、冷やし中華までだめだったら、悩んじゃっていたよ」

 祖母は「やれやれ」とかぶりを振った。

「そうめんも冷やし中華も、どっちも嫌いじゃないんだけど」

「久しぶりなんだから、貴也、じいちゃんに線香をあげてきな」

 小さめに放ったおれの愚痴は祖母に届かなかったようだ。祖母は自分のグラスに一度も口をつけることなく、そそくさと台所に入ってしまう。

「ああ、仏壇か」

 おれは仏壇が苦手だった。いや、仏壇、というよりは祖父の遺影が苦手なのだ。おぼろな記憶では、祖父は一徹であり、いつもしかめ面だった。そういった思い出に反し、遺影の中の表情はにこやかである。だがおれには、鬼が無理にほほえんでいるように見えてしまうのだ。怖いというよりは気色悪いのである。

 手を伸ばして引き寄せたリュックから、スマートフォンを取り出した。今となっては友人たちとのLINEのやり取りも希だが、通販サイトなど、登録してあるサイトからメールが届いている可能性がある。

 スマートフォンの電源キーを押したおれは、一瞬、戸惑った。ロック画面にならないのだ。

「どうしたっていうんだよ」

 とこぼし、何度も試してみるが、電源は一向に入らない。

 バッテリー切れの可能性もあるが、今朝、自宅を出る前に充電したのだ。電車の中でもバスの中でも電源は一度も入れていなかった。

 リュックから充電ケーブルを取り出し、スマートフォンと居間の隅にあるコンセントを繫いだ。しかし、充電中の表示が出ない。

「困ったな」

 スマートフォンを手にしたまま肩を落とした。故障だとすれば、ばかげたパフォーマンスを動画サイトで楽しむ、という日課は当分はお預けだろう。ささやかな心の支えを失ってしまい、暗澹とした気分になった。

 いや、何もかもに見放されているのだ。ここに来たからといっておれの不遇が払拭されるわけではない。缶飲料の自動販売機は県道沿いの雑貨屋まで行かないとないし、一番近くのコンビニエンスストアに至っては五キロも離れている。それどころか、市街地の中心までの距離が二十キロもあるのだ。こんなただの田舎に何を期待すればよいのだろう。

 当てつけに、当分の間は仏壇の間に入らない、と決めた。

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