第4話 ③

 広くなった道を二分も歩くと、雑草のはびこる空き地へと出た。

 数十分ぶりの日差しがまぶしい。

「ここ、ここ、ここ、ここ、ここだってばさあ」

 エリに手を引かれているナナが意味不明の歌を口ずさんだ。

 子供たちを先に行かせる形でおれは立ち止まり、周囲を見渡す。

 空き地は草野球ができるほどの広さがあり、木立と藪に囲繞されていた。おれたちが足を踏み入れたのはその南の端らしい。随所に腰ほどの高さの雑草が固まっているが、概ね歩行に支障はないだろう。

 この空き地にはいくつかの道が繫がっていた。というより、藪の切れ目が無数にあり、どこからでも容易に出入りできるらしい。特に東は雑木林全体の端のようで、木立はまばらだった。もっとも、東の木立の外方に垣間見える光景は、雑草に覆われた斜面が緩やかに立ち上がっているだけ、というものだ。丘の一部らしきその斜面に遮られているため、遠望はかなわない。

 空き地の中央で子供たちが足を止めた。

「あそこだ」

 カズマが空き地の北の端を指差した。木立の手前に、普通乗用車が一台なら入りそうな大きさの小屋がある。

 すぐに子供たちに追いつき、おれも小屋に目をやった。

「あの小屋はよその人のものだ。勝手には入れないぞ」

 おれは警告したが、カズマは笑みを浮かべて「どうってことないさ」と返すなり、小屋に向かって歩き出した。

 そのカズマを追いながら、キヨシが振り向く。

「ここまで来たんだし、引き下がれないよね」

「そういうこと」

 意に介さない様子で言ったモリオも、歩き出した。

 おれは肩をすくめる。

「しょうがない」とこぼし、エリやナナとともに三人の少年に続いた。

 近づきながら見ると、小屋はかなり朽ちていた。板壁はところどころに穴が開き、観音開きの扉は右側だけが戸口の外に倒れている。

 小屋の前に辿り着いたカズマは、倒れている扉を足で押してどかした。そして、戸口の外に立ち、中を覗く。一瞬、その背中がのけ反った。

「どうした?」

 おれはカズマの隣に立ち、緊張している横顔を見た。

「何かいる」

 小屋の中を見据えたまま、カズマは答えた。

 おれも小屋の中を覗くが、暗さのため、土間であること以外の詳しい様子はつかめなかった。少なくとも扉のすぐ内側には何もない。

「何も見えないけど」

「奥にいるんだ。絶対にいるよ」

 小声でカズマは訴えた。

「じゃあ、人かもしれないな」

 さすがにおれも小声になってしまった。

「くそう」

 小屋の中を覗き続けるカズマは、まるで仇敵を前にしたかのごとく顔をしかめた。

「もしかして猪? それとも野犬か?」思わず声がおののいてしまう。「なあカズマ、この小屋はやめておこう」

「タカ兄ちゃん、びびったのか?」

 モリオのその一言がおれをムキにさせた。

「びびるかよ。わかった、おれが見てやる。下がっていろ」

 猪との遭遇は避けたいが、子供たちの前で尻込みすれば大人としての面目が立たない。

 とりあえずは少しでも中を明るくしよう――そう考え、左側の扉に手をかけた。しかし蝶番が壊れているのか、まったく動かない。

 採光の措置を断念したおれは、扉のない右側から入ろうとした。

「待って」

 物怖じしたような声を出したカズマが、おれの右腕を両手でつかんだ。

「なんだよ、カズマらしくないな。やっぱり猪がいるのか?」

 尋ねたが、カズマは答えることなく、顔をこわばらせて小屋の中を覗き続けていた。振り向けば、エリとキヨシばかりか、おれを挑発したモリオまでが、緊張の面持ちで小屋の中に視線を定めている。唯一、エリに手を繫がれているナナだけが、何やら鼻歌を口ずさみつつ空を見上げていた。

 気持ちを鎮めて熟考した。おれ以外の五人は皆、子供である。おれの判断ミスで子供たちを危険な目に遭わせるなど、あってはならないはずだ。

「そうだな。静かに下がろう」

 おれが決断すると、カズマはおれの右腕を離した。

「それがいいよ」

 小屋を覗きながら、カズマはそっと頷いた。

 おれは振り向き、後ろの四人に「さがれ」と手で合図する。

 エリがナナの手を引いてゆっくりとあとずさるのを皮切りに、モリオとキヨシもそろそろと後退した。

「カズマ、おれたちもだ」

「うん」

 カズマは返事をしたものの、動く気配がなかった。いや、硬直しているらしい。

「しっかりしろ、カズマ」

 なんとか励まそうとしたが、効力はなかった。

 おれはカズマの左腕を強引に引き寄せた。

 そのとき。

 大型犬並みの大きさの黒い塊が一つ、扉のない右側の開口部から飛び出した。

 とっさに躱したおれは、カズマとともに草むらに尻餅を突いた。

 それは止まることなく、一直線に南に向かって走り去ってしまう。

 四つ足の獣――いや、足は四本だけではなかった。

「なんだったんだ、今のは……」

 おれは声を震わせてしまった。

 面目など気にしている場合ではない。ありえない数の足が生えていたのだから、ただの獣ではないだろう。しかも、それらの足は真下ではなく左右に広がっており、やたらと関節が多かったのだ。巨大な節足動物、もしくは化け物である。

 先に退いていた四人は無事なようだ。あの化け物の進路から外れていたことが幸いしたのだろう。とはいえ、エリとモリオ、キヨシの三人は、見開いた目を化け物の走り去ったほうに向けている。エリに手を繫がれているナナだけが、状況を把握できていないのか、きょろきょろと辺りの様子を窺っていた。

 尻餅を突いたままのカズマが、同じ姿勢のおれに顔を向けた。どうやら彼は、我を取り戻したらしい。

「タカ兄ちゃん、大丈夫か?」

「ああ、大丈夫だ」

 おれとカズマは立ち上がり、揃ってエリたち四人の元へと行く。

「みんな、大丈夫か?」

 誰も怪我をしていないのは一目瞭然だが、それでもおれが声をかけたのは、固まっている四人――いや、ナナを除く三人を現実に引き戻すためだった。

 すぐに笑顔を浮かべたモリオが、おれを見る。

「平気のへっちゃら」

「ぼくも、なんともないよ」

 キヨシも自らの無事をアピールした。

「小屋から離れていて、よかったあ」

 安堵の色でエリは言った。

「ねえねえ、お宝は?」

 ナナはマイペースだ。

 腑に落ちなかった。あんな化け物を目の当たりにしたにもかかわらず、子供たちの動揺は思いのほかに小さい。

 訝しみつつ、おれはナナの問いに答える。

「お宝はやめておこうね」

「もう小屋に入っても大丈夫だよ」

 おれの隣に並んだカズマが告げた。

「今の見ただろう? あんな化け物がいたんだぜ」

 訴えたが、カズマはおれを蔑視する。

「どこが化け物なんだよ。ただの犬だったじゃん」

「何を言っているんだ。大きな虫だったじゃないか。足が何本もあって、関節がいくつもあって」

「いきなり飛び出してきたから、たぶん見間違えたんだよ」

 モリオが割って入った。

「モリオこそ、ちゃんと見たのかよ?」

 受け入れられず、おれはモリオを睨んだ。

「見たよ。大きな黒い犬だった」

「うん。化け物でも猪でもなくて、犬だった」

 キヨシがモリオに加勢した。

「あたしも見たけど、犬だったよ」

 エリも先の意見に追従した。

 そんなエリに寄り添うナナが、つぶらな瞳でおれを見上げている。

「ナナちゃんはちっちゃいから、草しか見えなかったよ。ななちゃんもわんちゃん、見たかったな」

「ナナちゃん」おれは言った。「あんなもの、見えなくてよかったんだよ」

 とにかく、四人の意見が一致したことで、おれの主張は信憑性を失ってしまった。

「タカ兄ちゃんは、虫だ、って言うけどさ、どんな虫だったのか覚えている?」

 そう尋ねたのはカズマだ。

「どんな、って……」

 思い出そうとするが、黒い塊に何本もの足、という姿が浮かぶだけだ。

 しかし、あと一つだけ、脳裏に焼きついている特徴があった。

「全身が毛に覆われていた」

 おれの一言で、ナナを除く四人が頷いた。

「ほらね、やっぱり犬だ」カズマは笑った。「犬は毛に覆われているし」

「虫だって毛に覆われているんだぞ」おれは意地を張った。「ミツバチなんかわかりやすいじゃん。毛虫なんて、本当に毛だらけだし。カブトムシだって、よく見れば毛が生えているんだ。そうそう、今の何かの体毛は、カブトムシの体毛と同じ感じだった」

「タカ兄ちゃん、諦めが悪いっていうか、虫好きなんだね」

 呆れ顔でモリオが言った。

「虫好きならわかると思うけど、あんな大きな虫なんているわけないじゃん」

 至当な意見を述べたのはキヨシだ。

 考えるまでもないだろう。おれはどうかしているのだ。夜中の天井裏の物音といい、雑木林の中を走っていった何かといい、小屋から飛び出してきた巨大な虫といい、心因性の錯覚ではないだろうか。おそらく、バス停での幻覚も同じだろう。自覚している以上に、おれの疲れは深刻なのかもしれない。

「そうだよな。虫であるわけがないよな」おれは頷いた。「虫にはまっていたのは小学生の頃だったけど、あの頃でさえ、犬と虫の区別はついていたんだ。それなのに、今のおれって……」

「お兄ちゃん?」

 エリが心配そうにおれの顔を覗いていた。さすがに女の子は鋭い。

「大丈夫だよ」なんとか笑顔を作った。「さっきのびっくりが、ちょっときつかっただけさ」

 横目で確認すると、ほかの四人はおれの心境に気づかなかったようだ。

「タカ兄ちゃんが大丈夫なんだし、さあ、小屋の中に入ってみよう」

 安心したのも束の間、カズマのその発言を聞き、おれは動揺する。

「あいつの仲間が、中にまだいるかもしれないじゃないか。それに、犬なら犬で、野犬の可能性があるぞ」

「問題ないよ」キヨシが言った。「ぼくたちについているのは、犬を一発の蹴りでやっつけることのできるタカ兄ちゃんなんだもん」

 心の傷をえぐる言葉だった。

「とにかく、早くあの小屋を調べてみようぜ、タカ兄ちゃん」

 モリオに催促され、おれは渋々と頷いた。

「わかったよ。調べりゃいいんだろう」

「タカ兄ちゃんが先頭だ」

 そう告げるなり、カズマはおれの背中をぐいぐいと押した。

「まったく」

 押されるままに、おれは前進する。振り向くと、おれの背中を押しているカズマの後ろに、モリオとキヨシが続いていた。最後尾のエリとナナは、仲よく手を繫いでいる。

 戸口の手前でカズマから解放されたおれは、自分の意思で右側の開口部から小屋の中へと足を踏み入れた。

 子供たちは戸口の外に立ち、中を覗いている。宝探しだのと騒ぐ割りにはいい気なものだ。おれはうまく乗せられているだけなのかもしれない。

「どう?」

 エリがおれの背中に尋ねた。

「待っていろ」

 とにかく、闇に目が慣れなければ何も見えないのだ。一歩入った位置で立ち止まり、目を凝らす。

「タカ兄ちゃん、頑張れ」

 そうはやし立てるカズマがうっとうしかった。

「わかっているから、少し黙っていろよ」

 それでも、壁の穴から差し込む光のおかげか、十秒ほどで闇に目が慣れた。

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