第6話 ②

「貴也、いいか?」

 部屋の外で父の声がした。

 おれは熟睡していたのだろう。腕時計を見ると一時間も経過していた。

「ああ、いいよ」

 嫌々ながらも答え、半身を起こしてあぐらをかいた。

 襖を開けて父が入ってきた。

「そこ、閉めてね。冷房が効いているから」

 おれが告げると、父は素直に襖を閉めた。

「母さんは……美沙は、まだ来ないな」

 おれの目の前にあぐらをかいた父が、そう言った。

 殺風景な和室で、おれは父と向かい合う形となった。顔も見たくない、というのが本音だが、この状況下では逃げ出すわけにはいかないだろう。

「母さんが父さんをここに呼んだなんて、おれは、母さん本人からもばあちゃんからも聞いていないよ。どうしてばあちゃんの家で話し合いなんてするんだか」

「てっきり美沙から連絡があったと思っていたんだが、ばあちゃんも寝耳に水だったらしいな。美沙にしては段取りが悪いというか、いい加減だな」

「人のことなんて言えないじゃん」

 口調が強くなってしまった。父との会話など望まないが、近くにいたらいたで、どうしても怒りの矛先を向けてしまう。

「ああ、そうだな」

 うな垂れる父がいつもより小さく見えた。

「父さんも母さんも勝手すぎるんだよ」おれの怒りは鎮まるどころか、いっそう激しくなっていた。「家族なんだし、貴也の意見も聞きたい……さっき、父さんはそう言っていたけどさ、おれを家族と思っているんだったら、今までほうっておくなんて、ありえないだろう。結局、おれのことなんて何も考えていないんだよ」

 今回の家庭の問題では、初めて父に抗議した。事実、父は目を丸くしておれを見ている。

「おまえも、ちゃんと意見できるんだな」

「意見くらいするさ。でも……」なんとか自分を落ち着けようとし、おれは声のトーンを下げた。「就活に失敗しているし、おれだって偉そうなことは言えない。それに、両親の問題に振り回されてだだをこねていたって、惨めなだけだよな」

 自分の負い目は無視できなかった。

「貴也は自虐のつもりで言っているんだろうが、おれには痛い言葉だな」

 父は苦笑した。

 つられて、おれも苦笑する。

「いい気味だよ」

 その一言には自分に対する戒めもあった。

「そうだな」

 父は頷いた。

 互いに、苦笑というよりは自嘲だ。

 父が神妙な目つきになる。

「すまなかった」

 こんな台詞をここで聞くとは思わなかった。

 とはいえ、今さら謝罪されても、許すつもりはない。無論、母に対しても同様の憤りはある。一方で、おれは自分自身をも許すつもりはなかった。むしろ、騒動の発端となった自分こそが一番憎いのかもしれない。

 おれは黙し、畳を見下ろした。

 どれほど時間が過ぎたのか、感覚的にはわからなかった。とてつもなく長かったような気がするが、腕時計を見ると一分しか経っていなかった。

「それ」と父はおれの左手を見た。「じいちゃんのだよな? もらったのか?」

「うん」

 一言だけ返した。

 父は話し足りないらしく、うつむいたまま動かない。

 部屋から早く出ていってもらうためにも、おれは問う。

「ほかに話は、ないの?」

「ああ。話しても仕方がない、というか……」

 奥歯にものが挟まったような言い方だった。

「なんだよ。はっきりしないな」

 ならば、これで話は終わらせてもらおう。

「さっきの人」父はおれに顔を向けて口を開いた。「佐久本さん、というらしいな。佐久本佳乃さん、だったか」

「ばあちゃんから聞いたの?」

「そうだ」父は答えた。「あの人が去ったほうに空き家があったはずだから、もしかしたら引っ越してきた人なのかな、と思って、ばあちゃんに尋ねたんだ。そうしたら、なぜかばあちゃんは、少しばかり機嫌がよくなったな。でも、おれにいろいろと教えてくれたあとで、急にまた怒り出したんだ」

「若い女性のことを訊くなんて、どこまで女好きなんだ……とか?」

「ばあちゃんとの話、聞いていたのか?」

「だいたい想像がつくよ」

 またもや祖母の機嫌が二転三転したらしい。だが、祖母のその懸念は納得できる。父は不倫の域を超えて色情狂になってしまったのではないだろうか。

「彼女……佐久本佳乃さんは、独り暮らしなんだよな?」

 父にそう問われ、おれは警戒する。

「そうだよ。ていうか、ばあちゃんから聞いたんだろう?」

「聞いたよ。だがな……」

 解せない、といった表情だった。

 しかしおれは、父以上に解せない。

「それがどうしたんだよ?」

「どうもしないんだが……佐久本さんは子供を産んだ経験とか、ないのか?」

 あまりに突飛な質問を受け、おれは父を睨んだ。

「なんでそんなことを訊くんだよ」

 などとすごんでみたが、考えてみれば、おれは佳乃の過去を詳しく知っているわけではない。むしろ、佳乃のことをまだ何もわかっていないような気がする。

「そうだよな。そんなことを訊くのは、変だよな」

 父はかぶりを振った。

「佳乃さんにまで手を出そうとしているんじゃないよね?」

 耐えきれず、口にしてしまった。

「信じてはもらえないだろうが」父は言った。「今のおれは、女に興味がない」

「あの人……三島みしまさゆりさんだったね。三島さんと、うまくいっていないの?」

 父の不倫相手の名前など、口にするのも嫌だった。顔さえ知らないが、たとえ美人だとしてもおれが彼女と和合することはないだろう。

「まあな。二週間くらい前から、連絡の取れない状態が続いているんだ」

「それで、もう女はこりごり、っていうわけ?」

 年の差を考えれば相手の女は本気ではなかったのかもしれない。というより、短い期間とはいえ、こんな放埒な中年男が若い女と付き合っていたこと自体が奇跡なのだ。

「こりごり、というわけではないが」父はなおも続ける。「とにかく、佐久本さんにちょっかいを出したりはしないよ。まして、貴也が彼女に惹かれているみたいだしな。佐久本さんとは、付き合っているのか?」

「父さんには関係ないだろう!」

 声を荒らげてしまった。

「貴也の言うとおりだ。でもな――」と父は言葉を吞み込んだ。部屋の片隅に向けられた父の顔が、小刻みに震えている。

 その視線を、おれは目で追った。

 リュックだった。

 父はおもむろに立ち上がり、リュックの手前まで歩いた。そして、なんの躊躇もなくそれを拾い上げる。リュック――ではなく、滝壺で拾った缶だ。

「貴也、これは?」

 尋ねる父は驚愕の色を浮かべていた。

 目の前に差し出された缶を見て、おれも驚きを隠せなかった。少なくとも、朝食後に見たときは光沢のある黒だったはずだ。しかし父が手にするそれは、つやのない赤茶色である。

「うそだろう」とつぶやいたおれも立ち上がり、父の手から缶を引ったくった。手にした感触が、以前とは異なっている。ざらざらとしたそれは間違いなく錆だ。ふたも含め、全表面の半分以上が錆に覆われている。

 おれは父の顔を見た。

 緊張した瞳が、おれの手にある錆だらけの缶を見つめていた。そして、おれの顔にその視線が移る。

「これ、貴也のか?」

「いや……あの……おれの、というよりは、拾ったものだけど、いらないから捨てようと思っていた」

「どこで拾ったんだ?」

「どこ……って、北の林のずっと奥……」

「ずっと奥の……どこだ?」

 青ざめた顔がおれの目の前にあった。

「えーと」すくみつつ答える。「滝があって、その滝壺だよ」

「滝……」

 一瞬、父の目が遠くなった。しかしすぐにおれの顔に焦点を合わせる。

「貴也」父はおれの両肩を押さえた。「どうして滝まで行ったんだ? 誰かに何かを吹き込まれたのか? いつ行ったんだ?」

 矢継ぎ早に問われたおれは、父の両手を払った。

「父さん、何を興奮しているんだよ」

「あ……悪かった」

 我に返った様子で、父は目をしばたたかせた。

 この缶を目にした瞬間から父は落ち着きを失っていた。間違いなく、おれの知らない何かを知っている。その何かを聞き出すために、おれは口を開いた。

「東のほうに新興住宅地があるんだけど、そこに住んでいる小学生の子供たちに誘われて、昨日、一緒に行ったんだ」

 あの子供たちを「怪物」と思っていないからこそ、そう告げた。カズマもエリもモリオもキヨシもナナも、それぞれの家族とともに、新興住宅地で暮らしているに違いないのだ。

「子供たち? ならこの缶は、その滝壺で偶然に見つけたのか?」

「偶然ではないよ。子供たちは最初からこれ……ていうか、缶の中身が滝壺にあるのを知っていたんだ」

「中身……」父の目が見開かれた。「まさか、勾玉か?」

 おれの中に衝撃が走った。

 自分で設定した冷房だが、寒く感じてしまう。

「そう、勾玉だよ」

 おれの答えを聞いた父は愕然とした趣を呈し、右手で自分の額を押さえた。

「まさか……信じられない……」

 父の両肩が震えていた。

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