魔性の夏ヤスミ
岬士郎
第1話 ①
リュックを左肩にかけ、おれは路線バスを降りた。とたんに、県道のアスファルトの照り返しとアブラゼミの大合唱が襲ってくる。同じ関東地方でも東北地方に近いこの山里なら涼しいに違いない、と期待していたが、考えが甘かったようだ。冷房の効いた車内が恋しい。しかしバスは、西の山並みに向かって走り出し、やがて陽炎の彼方へと去ってしまう。
あまりの暑さにげんなりとしたそのとき、何かがおれの足元で蠢いた。
見下ろすと、アスファルトの上にどろどろとした白い泥状のものが広がっていた。おれの足元を中心に半径一メートル強を埋め尽くしているそれは、風もないのに細かく波打っている。左右のキャンバス地のデッキシューズは、ソール部が完全に飲み込まれていた。
白い何かが重力に逆らってじわじわとせり上がってきた。しかもそれは、泥状であるにもかかわらず強靱なのだ。おれの両足は膝の下を完全に固定されてしまう。
もっとも、逃げ出したいとは思わなかった。デッキシューズの中やストレートジーンズの内側に入り込んだ白い何か――その生温かさがなんとも心地よい。気温の高ささえ安楽と感じてしまう。
何もかもがどうでもよくなってしまった。
意識が遠のいていく。
おれの頭上を横切る影があった。
目で追うと、一羽のツバメが南の杉林の上空へ飛んでいくところだった。
この猛暑に負けたのか、幻覚を見ていたらしい。事実、白い何かなど、どこにも見当たらない。夏のさなかの生温かさを心地よいと感じたこと自体が、正気ではなかった証しだ。
飛んでいくツバメを見送った。あのツバメは幻覚ではないはずだ。あれだけ速く飛べばこの気温でも体を冷やせるかもしれない、と羨望する。
すでに全身から汗が噴き出していた。Tシャツの生地が背中にべったりとへばりついている。ストレートジーンズではなく買ったばかりの半ズボンにしておけばよかった、と悔やんでしまう。もしくは、半ズボンなどかさばるものではないのだから、着替えや歯ブラシ、シェーバー、目覚まし時計、スマートフォン、などの必需品しか入っていないリュックに入れておけばよかったのだ。
気を取り直し、
しかし、県道を渡って北に延びる道へと入るなり、おれは感嘆した。トウモロコシ畑の中を抜けるその道は砂利敷きだったはずだが、舗装が施されているのだ。道幅が車一台ぶんのままなのは致し方ない。
どのトウモロコシも飼料用のデントコーンである、と聞いていた。茎の高さは二メートル近くはあるだろう。身長百七十四センチのおれなど完全に負けている。それでも、太陽が頂点に達しているためか、トウモロコシの落とす影は小さかった。今のところ、この日差しから逃れるすべはない。
また幻覚に襲われるのではないだろうか。どんなに心地よい幻覚であろうと、意識を失えば行き倒れである。来訪して早々の行き倒れでは格好がつかない。川野中の笑い者になってしまう。
三分ほど歩いてトウモロコシ畑を抜けた。
道は緩やかな弧を描いて左へとカーブしている。
目指す家が木立の間隙に垣間見えた。瓦屋根の平屋である。そこに辿り着けば、エアコンが汗だくの体を冷やしてくれるはずだ。いや、この日差しを遮ってくれるものがあるのならそれでよい。
ふと、アブラゼミの大合唱が一斉にやんだ。辺りが静寂に包まれる。
おれは人の気配を感じつつも、歩みを止めなかった。
カーブの途中の右側に別の道が繫がっていた。こちらの道と同程度の道幅だが、そちらの路面は砂利である。
砂利道を十メートルばかり進んだ辺りに人が立っていた。おれはアスファルトの上を歩きながら、その姿に視線を固定する。
おれと同年代だろうか。二十代前半とおぼしき女だった。女はその場に立ったまま、じっとおれを見つめている。黒髪ロングストレートに白い半袖ワンピース、という姿だ。切れ長の目をした端麗な顔立ちである。
気づいたときには、おれは足を止めて正面を女に向けていた。ちょうど砂利道との丁字路だ。
戸惑いはなかった。ただひたすらに見つめていたかった。
砂利を踏み鳴らしながら、女がゆっくりと近づいてきた。
香水の香りが漂ってきた。シトラス系の爽やかな香りだ。
女がおれの目の前で立ち止まった。白い肌がまぶしい。
また幻覚を見ているのかもしれない。身知らずのこんな美人がおれと向かい合うなど、現実であるわけがない。ならばこの香りも錯覚なのだろう。
けだるさはあるが気分は悪くなかった。幻覚かもしれない女に、つい、陶酔してしまう。
「これ、落としましたよ」
女は言うなり腰を屈め、おれの足元に落ちているリュックを両手で拾った。
我に返ったおれは猛暑の中で目を見開く。
「どうも……」
それが精いっぱいの返事だった。
おれがリュックを受け取ると、女はほほえみを浮かべた。
「この辺の方じゃありませんね?」
女は首を傾げた。
「あ……はい。祖母の家がそこにあるんですが……あの……しばらく泊めてもらうことになっていて……」
舌を嚙みそうになるくらい、ろれつが回らなかった。
「ああ、
女は砂利道の先に顔を向けるが、藪と雑木林に遮られ、家屋は確認できない。
「自分は……えーと……い、伊吹
リュックを両手で抱えたまま、おれは声を震わせてしまった。
「タ、カ、ヤ、さん……ですね? しばらく滞在するんでしたら、ぜひ、うちに遊びに来てください」
女は笑顔だった。
「は、は……はい」
おれの声は、よりいっそう大きく震えた。
「それでは」と一礼した女が、背中を向けて歩き出した。
見送るおれは呆然と立ち尽くす。
白いワンピースの後ろ姿が藪の陰に入ると、突然、アブラゼミたちが鳴き始めた。
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