第1話 ③

 昼食を済ませたおれは、「気晴らしに散歩してくる」と祖母に告げて玄関を出た。だが、晴れているのは、まぶしい空だけだ。おれの気持ちは晴れるどころか、この暑さと相俟ってどんよりと曇っていた。

 アブラゼミたちが飽きもせずに鳴き続けている。

 所持品は、ジーンズの右後ろポケットに差し込んだ財布と、左前ポケットに入れた祖母の家の合い鍵だけだ。故障したらしいスマートフォンなど持ち歩かないのは言わずもがなだが、手元になければないでどうにも落ち着かない。スマートフォンにふれている時間は割と少ないほうだ、と思っていたが、実際は依存症になりかけているのかもしれない。

 娯楽と呼べるものが皆無に等しい僻地にいるのにスマートフォンさえ使えないのだ。あらゆるしがらみから解放された、と受け取れるかもしれないが、今のおれは、何もない砂漠にたった一人だけ取り残されてしまったかのような寂寥感にさいなまれていた。

 集落の中をうろつくのは避けたかった。祖母が近所の人たちにどこまで話しているのか、おれにはわからない。だが、おれを伊吹静枝の孫と知っている人もそうでない人も、出くわせば何かと詮索してくるだろう。

 人目を避けるため、集落の中心とは逆方向の東へと向かった。道なりに進めば――つまり先ほど通ってきた道をあと戻りすれば、トウモロコシ畑を抜けて県道に出られる。だが、そちらは集落の外れとはいえ民家が点在し、バス停や雑貨屋もあるのだ。人に会う確立は集落の中心より高いかもしれない。

 閑散としたエリアを求め、向かって左の砂利道に入った。佳乃の家はこの先にあるはずだ。佳乃は「ぜひ、うちに遊びに来てください」と言ってくれたが、いきなり自宅を訪ねるのは自重すべきだろう。とはいえ、運がよければ歩いている途中で佳乃と会えるかもしれない、などと期待しているのは事実である。

 祖母の家を出て二分と歩かないうちに、砂利道の北沿いに雑木林が接する場所、に差しかかった。道はそこで二股に分かれていた。左の道を行けば川があり、その先に田んぼが広がっている。右の道はトウモロコシ畑を迂回してやはり県道へと出られるが、その途中に佳乃の家があるのだ。

 佳乃の家の方向に意識が集中していた。しかし、おれの足は左の道を選んでしまう。佳乃の家に立ち寄りたいという思いが、おれ以外の「何か」によって抑制されている――そんな気がした。未練がましく右の道の奥に目を向けるが、この位置からは木々と伸び放題の雑草しか窺えない。

 小川に架けてあるのは小さなコンクリート橋だった。高さが五センチ程度の縁石があるだけで、欄干はない。

 橋の手前の左側に大きな楢が立っており、岸の一角に木陰が作られている。

 おれは橋の手前で足を止め、川を見下ろした。幅が五メートルもない川は、おれから見て左から右へと流れている。

 正面に目を戻すと、道は橋を渡ってすぐに、川沿いに伸びる道と交差していた。直進しても左右のいずれかに折れても、変わらぬ道幅のうえに未舗装路だ。直進して田んぼの間を北に百メートルばかり進めば、父によって禁忌とされていた雑木林、へと至る。

 おもむろに上流に目をやった。五十メートルほど先にもう一つの橋がある。祖母の家の裏手に架けられたそれは、こちらの橋よりも小さな、木製の橋だ。そこからさらに五十メートルばかり川を遡れば川野の中心である。とはいえ、見える範囲に建っている家屋はたった八軒だけだ。川野全体でも世帯数は二十戸を超す程度らしい。

 雑草の生い茂った斜面を下り、木陰の中の川岸に立った。自然の冷房が効いているかのようで、ひんやりと心地よい。川の流れも気温を下げる効果があるのだろう。

 川の中でいくつかの小さな魚影が揺れていた。つい泳いでみたくなるが、こんなところで堂々と泳げば人目を引いてしまうに違いない。生活排水が流れ込んでいる可能性もある。

 ため息をついたおれは大きな石の上に腰を下ろし、片手で額の汗をぬぐった。

 川向こうの田んぼでは、五十センチ前後に成長した稲が緩やかな風に揺れていた。二匹のモンシロチョウがあぜ道の上で舞っている。

 炎天下の景色を眺めているうちに、つらい記憶が次々と浮かんできた。せせらぎを聞きながら追憶に身をゆだねた。

 無内定で大学を卒業したおれは自宅近くのコンビニエンスストアでアルバイトをしていたが、オーナーとの折り合いが悪く、一カ月足らずで辞めてしまった。都内の企業に就職した郁美とは、その頃からぎくしゃくし始めた。やがて連絡さえ取れなくなったと思いきや、いつの間にか郁美は、同じ職場の先輩社員と付き合っていた。おかげでおれは就活を再開する気にもなかった。バイト探しさえ忌避したのだ。

 その矢先に母が家を出て自分の実家に帰ってしまった。直接の原因は父の不倫である。

 不倫の発覚は、まさしく偶然だった。平日の昼間に買い物へ出かけた母が、父と若い女とが腕を組んでラブホテル街に入る、という現場を目撃したのだ。その日の晩、帰宅した父は母に問い詰められ、会社を休んで情事にふけっていた、と認めた。

 浮気相手の女は四十九歳の父より二十歳以上も若かった。若いだけでなく、中学生のときに出産してその子を養育している、という未婚の母でもあったのだ。

「あんなドブスのどこがいいんだか!」

 母はそう言い残して自宅をあとにした。捨て台詞にしては下卑ていたが、閉じこもりぎみのおれに対する苛立ちもあったのだろう。おれが就活を諦めてからというもの、周囲に当たり散らすようになった母である。自宅でののしられることのなくなったおれにしてみれば、安堵のほうが大きかった。

 母は出ていってしまったが、父はおれに引け目があったのか、浮気相手の若い女を自宅に連れ込むことはなかった。とはいえ、おれがこちらに滞在している間は、父のやりたい放題に違いない。

 両親の絆のほころびは大きすぎた。まだ離婚届は提出していないらしいが、母の名字が旧姓に戻るのもそう遠くないような気がする。

 すべての元凶は、おれの就活の失敗にある。就職さえしていれば、郁美に振られることなどなかったかもしれないし、伊吹家の危機も回避できたかもしれない。

 そんなおれに「うちへおいで」と誘ってくれたのが祖母だった。家を出た母が祖母に電話を入れ、鬱憤を晴らすかのごとく家庭の実情を伝えたらしい。

 夏風邪をこじらせたことにより、川野を訪れよう、と決めてから二週間後の来訪となったが、病に伏せっていたその間、おれは父とは一言も言葉を交わさなかった。顔を合わせるのも嫌だった。川野にしばらく滞在することを父に伝えてくれたのは祖母である。

 祖母に甘えてばかりの自分が、たまらなく情けなかった。


 大きな水音がした。

 おれは我に返ると同時に、顔面に水しぶきを浴びた。

「攻撃終了!」

 子供の声だった。

 おれから五メートルと離れていない対岸の日向に、四人の子供――三人の少年と一人の少女が立っていた。皆、十歳前後で黒々と日に焼けている。揃ってTシャツ姿だが、三人の少年は半ズボン、少女はショートパンツを穿いていた。四人はおれを見ながらくすくすと笑っている。

 おれが呆気に取られていたのは、ものの三秒ほどだ。人を小ばかにするような笑いによって一気に憤激が込み上げた。

「隙だらけだなあ。そんなんじゃ、川に引きずり込まれちゃうぞ」

 そう言ったのは、ほかの三人より一歩手前に立っている少年だった。スポーツ刈りが快活な印象だ。白いTシャツが日差しを反射している。声からすると、「攻撃終了!」と叫んだのはこの少年のようだ。

 とにかく、黙っているわけにはいかない。濡れた顔を片手でぬぐいながら、おれは立ち上がった。

「誰がおれを川に引きずり込むんだ? 河童でもいるのか!」

「河童じゃねーよ。もっと怖い――」

 ふと、少年は口をつぐんだ。

「あなたたち、またいたずらをしたわね」

 おれの背後で声がした。穏やかではあるが、明らかにとがめている。その声は、若い女のものだ。

 振り向くと、橋のたもとにあの女――佐久本佳乃が立っていた。

「見ていたわよ」佳乃は子供たちを睨んだ。「あなたたちがさっきからこの辺を行ったり来たりしているみたいだったから、様子を見に来たのよ。だめじゃない、大きな石を川に投げ込んだりしては。人に当たったら怪我をさせちゃうのよ。こんないたずらは、もうやめなさい。わかった?」

「ちくしょう」

 スポーツ刈りの少年が悪態をついた。

「どうする?」

 太りぎみの少年がスポーツ刈りの少年に問う。

「もう行こう」

 やせぎすの少年が下流のほう――東を見ながら言った。

「そうしようよ」

 左サイドテールの少女がやせぎすの少年に同調する。

「待ちなさい。その前に、このお兄さんにちゃんと謝りなさい」

 そう諭す佳乃は、まるで、やんちゃ生徒たちに手をこまぬく小学校の教師だ。

 日差しの中、四人の子供が横一列に並び、ぺこりと頭を下げる。

「ごめんなさい」

 四つの声がきれいに揃った――と思いきや、全員が顔を上げて舌を出した。

「べー」

 これも見事に四人の調和が取れていた。日頃から何度も同じリアクションをこなしているに違いない。

「逃げろ!」と叫んだスポーツ刈りの少年を先頭に、子供たちが東に向かって一斉に走り出した。

「困った子たち」佳乃は言いながら斜面を下りてきた。「川野の人たちはみんな、日頃からあの子たちのいたずらに手を焼いているんですよ。特に今は夏休みだから、平日も週末も」

 今日は土曜日である。ならば金曜日である昨日も、あの子供たちはやりたい放題だったのだろう。

「なるほど」

 気の抜けた返事をしつつ、川沿いの道を走り去る四つの小さな背中を見送った。佳乃の前では、煮えくり返っていた気持ちも冷めてしまう。というより、まったく別種の熱い思いが込み上げていた。

「まあ」

 おれの顔を見るなり、佳乃が目を丸くした。

「はい?」

「顔がびしょ濡れ。それに服まで」

「大丈夫ですよ。この暑さですから、涼しくなって、かえっていいくらいです」

「暑さ」より「熱さ」に参りそうだった。おれは冷静になろうと、またしても片手で顔をぬぐう。顔を濡らしているのが水なのか汗なのか、もうわからない。

「わたしの家にいらっしゃいませんか? タオルで拭いたほうがいいと思いますよ」

 佳乃の気遣いは嬉しかったが、そこまで甘えてかまわないのか、判断に苦しんだ。

「どうせすぐに乾きますよ」

 そう答えた。図々しい男と思われたくなかったのである。もっとも、佳乃が気を悪くしたのではないか、と若干の不安はあった。

 しかし、佳乃は笑みを浮かべる。

「なら、冷たいハーブティーを飲んでいきませんか? そうそう、ちょうどケーキを作ったばかりなんです。一人で食べるより、誰かと食べたほうが楽しいし」

 そうまで言われたなら断るべきではないだろう。

 おれは佳乃の誘いを受け入れた。

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