第5話 ③

 隊列に変更はないため、おれはやはり最後尾だった。左右を杉林に挟まれた砂利道を六人で進む。

 小川のせせらぎもミンミンゼミの鳴き声も彼方に消えてしまった。

 やがて道は緩やかな上りとなり、蛇行が多くなった。

 おれはすでにバテぎみだが、子供たちは疲れを知らないようだ。五人は皆、にぎにぎしく歩いている。そう、ナナでさえ余裕があるのだ。いざとなれば二つ目のお宝を差し置いてもナナを背負って戻ろう――などという気遣いは必要なかったらしい。もっとも、往路と帰路では疲労の度合いが違うはずである。気を抜くのはまだ早い。

 そんなことより、落ち込んだ気分がなかなか元に戻らなかった。疲れと相俟って、子供たちのようにははしゃげない。エリはもう気にしていない様子だが、それだけが唯一の救いである。

 音が聞こえた。

 絶え間なく続くその音は、道を進むほどに大きくなってくる。どうやら、水が流れ落ちる音らしい。しかも、かなりの水量のようだ。

 腕時計を見ると、昼食を取った場所から一時間弱は歩いていた。

 唐突に空が広がった。

 道は右に大きくカーブしながら再び杉林の間へと入っていくが、おれたちは直進し、その開けた土地へと足を踏み入れた。

 おれたちが足を止めたのは砂地の一角だった。左右に杉林が広がり、正面には高さが二十メートルほどの崖が立ちはだかっている。その崖の中央には、太陽の光を受けて白く輝く細長い滝があった。滝の水は直径三十メートルほどの巨大な水たまりとなり、おれたちの背後に広がる杉林のほうへと流れ出ている。

 思わず、その清澄な佇まいに引き込まれてしまう。

「すごいじゃん」

 瞠目しつつ独りごちたおれは、子供たちを置いて水際まで進んだ。

 水たまりの大部分は水深が一メートル前後だ。滝壺の辺りのみが黒々としており、かなり深いのだろう、と推測できる。

 子供たちも水際までやってきた。

「こんなところがあるとは、知らなかったな」

 おれが感嘆すると、カズマが得意げな笑みを浮かべた。

「だろう? おれたちの秘密の場所なんだぜ」

「何を言っているんだかなあ。川野に住んでいる人なら誰もが、この滝のことを知っているみたいだよ」

 キヨシがあざけりの色を浮かべた。

「いいじゃん。そういう気分に浸ってみたってさ」

 ふてくされた顔つきでカズマは返した。

「知らなかったのがおれだけでも、カズマの体面は保たれるよ。少なくとも、おれはこの景色を見て驚いたんだ」

 そうなだめ、おれはカズマの肩を軽く叩いた。

「さすが、タカ兄ちゃんは大人だね」

 カズマは機嫌を取り戻したようだ。

 もっとも、「大人」と言われたおれは、先ほどの情けなさを思い出してしまう。

「ところで」辛気臭さを払拭したかったおれは、無理にでも声を明るくした。「二つ目のお宝って、ここにあるのか?」

「うん、そうだよ」

 カズマの答えを聞いたおれは、もう一度、周囲を見渡した。そして、嫌な予感に襲われる。

「まさか、あの滝壺の底……なんてことはないよな?」

「滝壺に決まっているじゃん」

 元気よく答えたのはモリオだった。

 一瞬にして気力が萎えてしまう。

「ふざけているのかよ」

 おれが吐き捨てると、カズマが滝壺を指差した。

「本当にあの滝壺の底にお宝があるんだよ」

「本当だとしても、おれが取ってくるんだろう?」

 どす黒い深淵を見れば、たとえ乗りかかった船であろうと降りたくもなる。

「子供じゃ危ないんだよっ」

 エリに手を繫がれているナナが、おれを見上げて言った。

「ナナちゃん、大人でも危ないんだよ」

「危なくないもん」ナナは言いきった。「お兄ちゃんは大人だから大丈夫なんだよっ」

 金槌でないのは事実だが、是が非でも、二つ目のお宝は諦めてほしかった。

「やっぱり危ないよ。確かにお兄ちゃんは大人だけどさ、あそこに潜る行為そのものが子供じみているというか……」

 そのとき。

 ふと、気分が軽くなった。日向の暑さを思えば水中を漂うのも悪くない――と。

 とはいえ、この切り替えの早さはおれらしくない。祖母や小杉の態度の変化を彷彿とさせるではないか。気分は軽くなったが、理性がかすかに警鐘を鳴らしている。

 ナナがおれをじっと見上げていた。そのつぶらな瞳に見つめられているうちに、決心がついた。

「わかったよ。やるよ」

 ナナの頭を撫でながら宣言した。

「いいぞタカ兄ちゃん!」

 カズマが両手のこぶしを掲げると、ほかの四人も色めき立った。

「行く、と決めただけだ。お宝が見つかったわけじゃない」

 そう付け加えたおれだったが、子供たちの目の輝きを見て思った。お宝を見つけ出すより、おれが彼らと志をともにするかどうかが問題なのだ――と。考えてみれば、たとえこの滝壺の底に勾玉が沈んでいたとしても、見つけ出すなど容易ではないだろう。むしろ不可能と思える。

 とはいえ、先ほどのように大きな木箱にでも入っているのならば、その木箱を見つけ出すのはたやすいかもしれない。あんな大きな木箱を岸へと運ぶのは至難の業だが、ふたを開けることができれば中身だけでも持ち出せよう。

 念のため、おれはカズマに尋ねてみる。

「今度のお宝も、箱か何かに入っているのか? だったら、簡単に見つけられるんだけどな」

「うーん、わかんない」

 カズマの顔に不安の色が浮かんだ。

「そうか。なら、別に構わないんだ」

 せっかく盛り上がったのだ。成り行きに任せることにした。

 おれは、目の前にある大きくて平たい石にリュックを載せ、デッキシューズを脱いだ。

「泳ぐなんて久しぶりだな」

 しかも、河川での遊泳は初めてである。

「何かあったら、おれたちが助けるよ」

 自信満々の笑顔でカズマが言った。

「おまえらの救助なんて当てにしていないよ。それより、事故が起きないことを祈ってほしいんだけどな」

 そう返すと、カズマは口を尖らせた。

「じゃあ、祈ってやるよ」

「頼むぞ」

 おれは笑いながらTシャツとジーンズを脱いだ。デッキシューズも含め、それらのすべてをリュックの横に並べる。十気圧防水の腕時計は着けたままだ。靴下はもともと穿いていないので、これで準備は整ったわけである。

 いや、トランクスは水中で脱げてしまうかもしれない。ならば、最初から脱いでおくのが賢明だろう。

 おれがトランクスを下ろすなり、エリが両手で顔を覆った。

「お兄ちゃんのエッチ!」

「でもさあ、これを穿いていたら、泳ぎにくいんだぜ」

 とりあえず片手で股間を隠したが、エリは背中を向けてしまった。

「女子って難しいね」

 キヨシが肩をすくめた。

「お兄ちゃんもみんなも、デリカシーがなさすぎ!」

 反論するエリは、こちらを見ようともしない。

「デリカって、食べ物だったよな?」モリオがしゃしゃり出た。「デリカがなさすぎ、って言うけど、本当だよな。まだ食い足りないぜ」

「モリオ、やめておけ」

 げんなりとした表情のカズマが、軽くたしなめた。

「とにかく」おれは言った。「どうせやるんだったら、やりやすいようにやらせてもらうぞ。おれが水に浸かるまで、エリはそっちを向いておとなしくしていろ。おれのちんちんを見たくないんだったらな」

「お兄ちゃんのばかあああ!」

 エリの罵声が飛んだ。

 とにかく、一物を隠すのが面倒になり、思いきって股間から手を離した。

 モリオの目がおれの股間に釘づけになる。

「タカ兄ちゃん、やっぱり大人なんだな」

 下半身の一部だけが大人でも仕方がないだろう。とはいえ、認めてくれるのは大いに嬉しい。感謝の意を込め、戯れ言で応酬する。

「ただじゃ見せられないんだぞ。あとでモリオのも見せろよ」

 おれがそう告げるそばから、ナナまでがおれの股間を凝視する。

「じゃあ、ナナちゃんもあとでお兄ちゃんに見せるよっ」

「ナナちゃん、だめだよ!」

 エリが背中で叫んだ。

「ナナもあっち向いていな」

 そう諭したのはカズマである。

「ナナちゃんは大丈夫だよっ」

 ナナのそんな反撃を受け、カズマは苦笑しつつため息をついた。

「まあいいさ。じゃあ、行ってくるぞ」

 おれは子供たちに声をかけ、粗い砂地を踏み締めながら水際へと向かった。

 他人に全裸を披露するなど、今まで一度もなかった。どれほどこの子供たちに心を開いてしまったのだろう。自分でも驚くばかりである。

「お兄ちゃん頑張れ!」

 ナナの声援を背中に受け、おれは左のこぶしを天に突き上げた。

 祖父の形見の腕時計が日差しを反射する。

 躊躇せず、透明な水に足を突っ込んだ。

 水は予想していたより冷たかった。準備運動を忘れていたが、ここまで二時間も歩いたのだから、そのぶんは補えるだろう。無論、勝手な解釈である。

 水たまりは概ね、へそが隠れるくらいの深さだった。体を水温にならすため、すくった水を上半身にかけながら、歩いて前進する。最初は冷たく感じた水だが、流れ落ちる滝のすぐそばへと辿り着く頃にはだいぶ慣れてしまった。

 おれは足を止め、目を据えた。激しく波立つ水面――その下に、黒々とした深みが口を開けている。

 振り向くと、エリとナナが、三人の少年より前に立っていた。

「お兄ちゃん、本当に本当に、気をつけてね!」

 エリが手を振ってくれた。

「おう!」

 気合いで答えたおれは、意を決し、大きく息を吸い込んだ。

 反動を着けて頭から水中に突入する。

 心地よい冷たさがおれの全身を引き締めた。あの蒸し暑さがうそのようである。

 抵抗する水をかき分け、おれは下へ下へと進んだ。

 透明度は高かった。滝壺へと落ち込む砂地に、水面の波の動きによって光の舞いが映し出されている。

 正面を見ると、人の大きさほどもある白い塊が激しく身をくねらせていた。流れ落ちる滝が作り出す無数の泡――その集合体だ。

 こもってはいるが、水中でも音が聞こえた。滝が水面を叩く音が、絶え間なくおれの鼓膜に届いている。

 おれは泡の集合体の下を目指した。外から見るぶんには、黒々とした無限の深淵、と思われたが、実際は三メートル程度の深さだった。

 そのすり鉢状の滝壺の底には、人の頭ほどの大きな石や、落ち葉、木の枝などが堆積していた。これではお宝を見つけ出すのは無理かもしれない。

 滝の裏のほうを見ると、崖の水面下に相当する岩肌があった。洞穴かと見紛うくらいに大きくえぐれており、滝壺よりも光が届いていない。できることなら、そちらには行きたくなかった。

 息が限界に近づいていた。そろそろ息継ぎをしようか、と思ったそのとき、一匹の小魚が目の前を横切った。

 無意識に小魚を目で追うと、滝壺を形成するすり鉢の斜面――白々とした砂地に、握りこぶし大の黒い直方体が見えた。箱のような物体である。

 もう限界だった。

 物体のおおよその位置を把握し、おれは浮上した。

 流れ落ちる滝のすぐ近くだった。絶え間なく飛散する水しぶきが、陽光を浴びて輝いている。

 立ち泳ぎで姿勢を維持し、大きく息を吸い込んだ。

 肺に新鮮な空気を送り込むと、活力がみなぎった。

 岸に顔を向け、立ち尽くす子供たちに朗報を伝える。

「何かあったぞ!」

「すげー!」

 真っ先にモリオが反応した。

 もっとも、カズマは不安げな顔である。

「大丈夫? 取ってこられそう?」

「ああ。今、拾ってくるよ」

 答えたおれは深呼吸を繰り返した。そして最後に、大きく息を吸う。

 水に潜る直前、滝の轟音の中に異様な音を聞いた。人が水に飛び込んだかのような音だった。

 気のせいだろうと思い、おれは潜水を再開した。

 二度目の潜水では、流れ落ちてくる水の圧倒的な力を利用してみた。無数の泡にもまれたおれの体は、一気に滝壺の中へと押し進められる。

 子供たちの歓声が遠くに聞こえた。かなり興奮しているらしい。エリに至っては「やめてえええ!」などと叫んでいるが、いくらなんでも興奮しすぎだ。

 水の勢いに任せて滝壺の中へと送られたおれは、泡の集合体から離れ、すり鉢の斜面へと向かった。白い砂地の中で、光沢のある黒い物体が目立っている。近くまで寄り、それを右手でつかんだ。

 黒い物体は金属であるらしい。おそらくブリキかアルミニウムだろう。箱というよりは缶である。

 わずかに重さを感じた。本来の中身が詰まっている可能性はあるが、水で満たされているとも考えられる。

 缶の中身の確認は、みんなでしよう。

 おれは缶を手にしたまま、すり鉢の斜面を蹴った。

 水面に向かって浮上する。

 が――。

 右足を滝の裏側のほうに引かれた。

 細い何かが右足首に巻きついている、そんな感じだ。それはあまりに細く、皮膚に食い込んでいるらしい。ちぎれるかと思うほどの激痛だった。

 おれは顔を下に向けた。しかし、動揺するあまりなのか、それが細すぎるためなのか、右足首に巻きついている何かを目視することはかなわなかった。右足首にイモムシの体節のようなくびれが見て取れる。ということは、少なくとも強靱な糸であるらしい。

 焦ったおれは糸をほどこうとして左手を伸ばすが、ぐいっ、とさらに激しく右足首を引かれてしまった。その反動で左手の動きが乱れる。

 息ができない。

 早く水面に顔を出さなければ、窒息するだろう。

 もがいた。

 思わず水を飲み込んでしまう。

 滝の裏側の暗がりで、黒っぽい何かが蠢いていた。

 左手首の腕時計が、水中まで届いている陽光を反射する。

「お兄ちゃん……」

 ナナの声が聞こえた。

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