嫉妬

16

「あっ・・・ごめん」

「いいよ。電車揺れ酷いし、混んでるからね」


―ガタンッゴトンッ・・・ガタンッゴトンッ


車輪がレールの継ぎ目の隙間を通るたびに電車は音を鳴らす。

 線路というのはレールが繋がってできており、そのレールの継ぎ目には所々隙間が空いている。真夏になるとレールが膨張してしまい、継ぎ目のところでレールがぶつかり合って横に曲がってしまうのを防ぐためだ。

 ロングレール化が進んでいるといえど、電車を感じさせるその音はまだ所々で健在している。それが騒音被害の原因になっているのだが。

 

 そんな電車の揺れにあうと、早朝のこの時間帯。通勤・通学する人によって電車は混雑していて、隣の人との距離は極端に狭い。電車の揺れによって体を支えるために足を動かしてしまったら、誰かの足を踏んでしまうこともある。


 まさにそれが今、だった。


 成瀬さんは気にしていない様子だが、足を意図せず踏んでしまっただけとしても多少心に罪悪感というのは残るものだった。そして自分が他人に対してこんな感情を抱き始めたことに少し驚く。

「・・・それにしても、やっぱり服貸した方がよかったな。サイズはちょっと大きくなるけど」

 俺はまたも彼女のTシャツを見て申し訳なく思う。いや、どちらかというと少し恥ずかしかった。彼女のTシャツの右肩あたりには小さいとは言えないシミがついている。それは俺の涙によるものだった。


「いいよ。別に」

 彼女はまたもや気にしてない様子でそう言った。

「それにね・・・このシミは初めて克人君が私の前で感情を出してくれた跡だから。私にとっては嬉しいものなんだよ?」

 彼女は気にしていない・・・というよりむしろこの服を着ていたいようだった。

 恥ずかしいことには恥ずかしいのだが、彼女の服を汚してしまった代償として俺は受け入れることにして、「そっか」とだけ呟いた。


「・・・あ、でも私のはやめてよ?人前で着るの。恥ずかしくてどうかしちゃいそうだから」

 彼女は少しばかり威圧的な態度でそう俺に言う。

 1時間ほど前俺は、彼女の肩の上で涙を流していた。だが、彼女も何故か俺の方に頭を乗せて泣いていた。つい先ほど、何故泣いていたのかと聞いたら「しょうがないじゃんっ」とだけ答えられたのでその理由の追及はそれで終わりにした。


「降りるよ」


 彼女が俺に声をかける。

 その声には少しばかり彼女の不安を感じた。理由は言うまでもない。これから向かう場所が彼女の家だからだ。あんな形で家を出てきてどうあの父親と顔を合わせればいいのか彼女が不安がっていないはずがなかった。

 成瀬さんに声をかけられそのままホームに降り立つ。昨日にもこの駅に足を運んだはずなのだが、昨日は無心で走っていたからかこの駅はうっすらと記憶に残っている程度だった。

 彼女が慣れた足取りで駅を進んでいくのに対し、そのままついて行った。


 成瀬さんの家は駅からそう遠くない。というより走ればすぐだ。駅の周りは数件のスーパーと飲食店が立ち並んでおり、そこを抜ければ住宅街に入る。

 住宅が多く、朝のこの時間には多くの人が駅に向かって歩いている。全く逆の方向え向かっていると、俺は川の流れに逆らって泳いでいるような気分だった。

 成瀬さんの家に着く。

 昨日あんなことがあったのに駅と同じく、彼女の家も俺の記憶の中にはうっすらと残っていた。


「大丈夫か?」


 その声にドアホンを押そうとしている成瀬さんがパッとこちらを振り向いた。その顔色は良いものではない。この家の前に着いてからその顔には不安な表情がより一層見て取れるようになっていた。


「ごめんっ。克人君、やっぱり怖い」

 彼女が声を震わせてそう言う。

「いいよ。代わりに俺が押すから」


 その言葉は自然に俺の口から放たれた。自然に、というより勝手にといった方が正解かもしれないが彼女を助けようとまたしても俺の感情が働いた。

 ドアホンを押す。彼女の不安が伝染したのか、俺も緊張してしまう。


『今出ます』


 ドアホンのスピーカーから男性の声が聞こえる。駅も成瀬さんの家も記憶にしっかりと残っていた訳ではない。だが、その声の持ち主だけは忘れるはずがなかった。

 隣を見ると成瀬さんはその声を聞いて、体をビクビク震わせている。今日直接何かされる訳ではない。あの写真を握る俺が隣に抑止力となっている限り。だが、彼女はそんなことはわかった上で震えているのだ。頭ではわかっているが体が理解していないとはこのことを言うのだろう。実体験があるから、俺にもわかる。


 心の底に残った傷はそう簡単に癒えることはないのだ。

「成瀬さん」

「なっ、何?」

 声をかけただけでこの有様であった。暴力、暴言、強姦。ありとあらゆる傷が彼女の底には残っている。彼女は俺の傷を、心の空白を埋めようとしてくれている。だから、俺も何か彼女の傷を癒す一つの手立てになれないか、そう思う。いやなれるようにと願った。


「俺がいるから」

「ありがとう・・・」

 ただ俺があの父親から守るからというのを伝えるためだけにそれだけ伝えたつもりだったが、予想外にも彼女の震えはその一言でなくなった。

「ちょっと・・・いい?」

 俺が「何?」と答える前に彼女は俺の手を握ってきた。彼女の体温が手から伝わる。

「・・・急にごめん。でも落ち着つく」

 俺の手を握ったまま彼女はそう言うが、落ち着いた、といいつつもまだ彼女の不安は消えていなかった。俺の手を握るだけで何がどう落ち着くのかはよくわからなかったが、俺はその手を握り返した。強く優しく包んで。


「・・・ありがと」


 不安の色は消えない。それでも彼女の表情には余裕ができていた。

 ドアから鍵を開ける音が聞こえると同時にお互い咄嗟に手を引いた。何だか、恥ずかしさを感じる。


「荷物さっさと取ってけ」


 ドアの向こうからは彼女の父親が出てきた。言葉こそ威圧的であったが、その顔はかなりヤツれているように見える。

 成瀬さんは無言で家に入り、5分もしない内にパンパンに詰まったリュックといくつかの手提げを持って出てきた。今日の分のノートと教科書の量ではない。


「楓。俺の声なんか聞きたくないだろうが、これだけは伝えさせてくれ。悪かった。昨日母さんに伝えたら、『なんであの子だけっ』て言って出て行ったよ。お前もしばらくは帰ってこなくていい」

 それだけいうと彼はドアを閉めた。あれだけヤツれているのはこれまで支配していた妻と子が急に出ていってしまったショックでも受けたからだろう。彼がやったことは許されない。だが、今の彼の言葉はどこか思い詰めた上で出した言葉に聞こえた。


「克人君。ごめん、泣いていい?」


 彼女はそういいながらも既に泣いていた。許せない相手が謝ってくる。それが謝られた側にとってどんなに苦しいものか。考えれば俺にもわかる。募りに募った怒りはどこに行くか、それは虚だ。自分が信じていた怒りがスッと消えてしまう。受けた痛み、辛さが大きければ大きいほどその苦しいだろう。

 俺は彼女を包んだ。一体どれだけ俺と彼女は泣けば済むのだろうか。どうすれば解放されるのだろうか。朝はあんなに晴れていたはずなのに、見上げた空は雲に包まれていた。

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