動揺

06

『じゃあ! あなたが気を失って倒れそうになった私をとっさに手で支えて保健室まで運んでくれたのもっ! あなたの優しさじゃないの? 気を失って起きた時にどこも痛くなかった! 紛れもなくあなたがとっさに支えてくれたんでしょ!? 見ず知らずの男の子が倒れかけた私を支えて保健室まで運んでくれたって聞いた時に私は少なからず嬉しかったのに・・・』


 白濁とした視界の中で声がやたらと鮮明に俺の頭の中で響く。


「あれは・・・成り行きだ。俺の感情じゃない」


 そしてもう一つの声がそれを否定する。


「(あれは成り行きだ。俺の感情じゃない。俺の感情じゃない。)」

 俺はその教えを何度も心の中で暗唱する。俺が信じられるのはこれだけだ。俺が俺を救うでだてはこれしかない。人の心がなんてか弱いものかと自覚しながらそれを信じる。

「(あれは俺の感情じゃ・・・)」




「・・・ぇ。ねぇってば。降りるよ?」


 ぼんやりとしていた視界が徐々に明瞭になっていく。視界の端には俺の顔を覗き込む郡がいる。

 今日も俺は郡と登校していた。なぜか彼女は俺が家を出てくるところを待っていたようだった。


「あ、あぁ」

「んもう・・・そんな気力のない声出して。 ほら、行くよ」


 郡に袖を引っ張られて電車を降りる。そのまま改札まで付属品のように俺は郡に連れてかれた。改札を出ると、2つの流れがある。もちろん改札に行こうとする人と改札から出てきた人の流れ。ただ、改札から出てきた人の多くは俺と同じ学校の生徒。この流れは駅を出てからも途絶えることなく一つの高校までつながっている。


「克人・・・どうしたの。元気なくない?」


 今朝から郡が話しかけてくる間を練って視界がぼんやりとする。同時に浮かび上がってきたのは昨日の出来事だった。初めて感情を失ったことを人に話し、それを否定された。俺には信じるものがそれしかない。

 だから無意識に心の中で彼女の言葉を全力で否定している自分がいる。それが無理矢理思考に割り込んでくるものだから周りからはボケッとしているように見えるのだろう。


「別に。なんでもないよ」


 当然、郡には言えない。彼女は俺が泣けるのを知っている。感情を表に出せた頃を知っている。あの夢に毎日苦しんでいた俺を彼女は知っている。

 郡は死んだような雰囲気が無くなったと、俺があの夢を克服したことを喜んでくれていた。それが感情を失って克服したものだと知ったら彼女は成瀬さんみたいに否定するのだろうか。だから余計な心配もリスクもかけたくない。


「おはよう、天沢さん。」

「おはよう。郡ちゃん」

「おっはー郡」


 校門まであと50mを切ったところで女子4人くらいのグループに郡は声をかけられた。郡はクラスの中でも美人で明るく人気者だ。郡も気兼ねなく誰とも話すので登校中に見かけたら声をかけてくるものだろう。


 郡は。


「ねっ郡。今日遊び行かない?」

「いいよ。いこいこ」

「そういえば昨日のテレビみた?えっと何チャンだったけな・・・」

「もしかして4チャンでやってたお笑い番組のこと?」

 露骨といっては何だか俺がもの申したいと思っているようだが、彼女たちは郡にやたら話かけ俺には一切触れてこない。


「ねぇ、克人も・・・」


 その露骨な対応の違いに苦笑しつつも彼女は俺に話を振ろうとした。俺は何も感じないから別に大丈夫だというのに。


「郡。俺ちょっと用事あるから先行くわ。また後で」


 俺が原因で友達から郡が嫌な目で見られるなんてことは避けたいので俺は無理やり会話から退いた。急いで学校の方へ一人駆ける。後ろからは「何あいつ」と呟いていたのが聞こえる。そんな声は気にせず、いや気にすることができず俺はそのまま学校へ駆けた。


 その中に混じっていた「待って」と困惑を混ぜた呟きも無視して。


―キィィ


 何年も使われている下駄箱の扉が音を鳴らす。中にはいつもと変わらず白い上履きがただ置かれている。上履きもまた、履かれているということを誇示するかのようにかかと部分にはしわができていて白い表面も真っ白ではなく汚れが付いている。


 上履きを無造作に取り出し、靴を履き替えた。用事があるといったものの特に用事のない俺は少しばかり遠回りして教室に行くことにした。郡と同じか郡より遅く教室に入ればそれでいいと思った。



―トンッ・・・トンッ・・・


 いつもより歩くペースを落とすと、上履きが鳴らす音も同様にゆっくりなものだった。

 高校の校舎はかなり広い。遠回りをしようと思えばかなり遠回りできる・・・が、俺が校内を散歩しているのは郡に気を遣わせないために他ならない。俺は今下駄箱近くの階段をスルーし校舎一階を少し奥まで歩いていた。下駄箱近くの階段を登るとすぐに教室に着いてしまうからだ。


 俺は郡がそろそろ下駄箱を過ぎて階段を上がるだろうということを鑑みて、校舎1階の奥にある図書館まで来たところで階段を登りはじめることにした。


 落ち着くな


 階段の窓からは木が見える。校舎の中にひっそりと佇む自然は見ていて気持ちの良いものだった。


 校舎といっても一つの大きい建物ではない。それらはつながっているはいるものの、幾つかの建物が連絡通路で結ばれているようなイメージだ。

 それは俺が授業を受ける教室がある校舎と図書館がある校舎にも言えることで、校舎一階は途中までは広々とした廊下だが、図書館が見えてくると廊下は少し細めの校舎と校舎を結ぶだけの廊下となる。

 廊下の幅が生み出しているギャップは中庭のように使われ、多くは、堅苦しい校舎のなかに異物として草木が植えられてある。

 ただ、異物といってもネガティブな意味ではなく心を落ち着かせてくれるものだった。


 階段から見える繁った草木がまさにそれの一つだ。


 意外と遠回りして教室に行くのも悪くはないと思い草木にまた視線を移すと、ゆっくりだったペースがさらにゆっくりとなる。


 そもそも学校に来るのがそこまで早くはなかったが、教室に着く頃には授業まで10分を切っていた。郡は・・・いつものように人と人の間で会話を弾ませている。

 俺の視線に気が付いたのか否や、郡は友達に断りを入れて席についた俺に近づいてきた。


「ごめん。克人」


「いや、だから用事があったっていっただろ」


 俺にここまで気を使わなくてもいいのにと思いながら俺は郡に気を使う。


「そう・・・あ、次の授業、教室移動しなきゃだね。じゃ、また」

 気まずそうな顔を向けていた郡はもう切り替えていつもの明るい表情になっていた。

 次の授業は物理・・・か。俺は授業までの時間を見て授業の準備を始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る