05
―トンッ トンッ トンッ トンッ
硬さと冷たさを持つ学校の廊下は靴裏にリズムの良い乾いた音を奏でさせる。
“彼”を呼び止めた私はその場で立ち話をすることがどうにも恥ずかしく、開きった屋上を目指していた。いや、何と声を続けさせればいいのかがわからず時間を稼いでいたのかもしれない。
“彼”はこの一方的な話に嫌気も、面倒そうな表情もましてや嬉々とした表情など出すことない。ただ私の言うままについてきた。
―キィィィィ・・・バタンッ
屋上の扉を開き、閉める。放課後の屋上には人気がなく、静寂がたたずんでいる。
「有馬君・・・」
「あぁ」
彼は喜怒哀楽を出さないで答える。
「昨日のことなんだけど、その・・・ごめん」
これだけのことを言うのになぜ屋上まで来たのだろうか。自分で自分を呆れてしまう。
「謝罪・・・か。別にいい」
「そう。あなたならそう言いそうだと思った」
思っていた通りの反応。謝罪の相手は何も感じてくれないのだろう。だが、これも一種の自己満であり、それを私は満たした。
「ねぇ・・・先に謝っとくんだけど、さっき少しだけ話聞こえちゃったんだ」
「さっきって・・・カウンセリングのやつか?」
「あなたの過去って何なの?」
彼が放つ底知れない哀しさ。その原因は何なのか。私は気になってしまっていた。同時にその原因が例の“過去”というものに付随するものだと思った。
―スッ
私の言葉と同時に彼は彼の額に手を伸ばし、眉毛から上を隠している前髪を上げた。
「・・・俺は、感情を失いたい。それだけだ」
彼の右の眉毛より1、2cm上。そこには切り傷があった。それが何を表すのか。それは“彼”が“私”に言ったことで通じる内容だった。
「・・・有馬君。あなたも」
彼は肩を落とし「全部話すか・・・」と小さい声で呟く。
「俺は小さい頃君と同じような目に遭った。それはその時抵抗してできた傷だ。思ったより傷が深くてな。その上、その時気絶してて、まともに手当ても出来ないでほったらかされてた。血が止まらなくて気絶したよ。30%死ぬか死なないかの状況になってやっと病院に連れてってもらって何とか一命を取り留めたって。」
死ぬか死なないか。
死ぬか死なないか。
死ぬか死なないか。
私の思考をその言葉が反芻する。絶句した。
手首の血流が滞り腕に力が入らなくなったようだ。体から力が抜けていく。
同時に心がギュッと締め付けられた。
「・・・ごめん。ごめんなさいっ ごめんなさいっ・・・私、許されないこと言っちゃったよね? 何もわからないくせにって。ごめんなさいっ!ごめんなさいっ」
世界が屈折して私の眼に届く。世界が揺らぐ。額にはヒンヤリとした一本の線を感じた。
何も知らずに暴言を吐いたことを悔やんで謝ろうとした。ただ、私が吐いたのは言葉なんかじゃ謝罪ができないものだった。
「別にいいって言ってるだろ?」
「なんでっ! だって私あんなこと言ったんだよ!? あなたの傷も知らずにっ! どうすればっどうすればいいの!」
どうすればいいか。その主語は紛れもなく自分自身で、何をすれば許してもらえるのかを知りたかった。それが自己満であろうとそうしてはいられずになかった。
「だから、別にいいって。俺は何も感じないんだから」
「そんなことないでしょ!? 私だって、今受けてる苦痛が嫌で嫌でしょうがない。そこから動けない自分にもう絶望してる。奈々子に知られるのももっとやだっ。でも、でも、あなたはっ 小さい頃に虐待を受けたってことは周りにも色々な目で見られてきたんでしょ!?虐待する親の子供だからとかっ! 何で!何で何も感じないの!」
人のことなんか分からずに暴言吐いた私が何言ってんだか。でもこれだけは言いたかった。なぜ彼は何も感じないのか。つらいことはつらいのに。泣きたくなるのに。それが私が人一倍よく知る感情だから。なぜ彼がそれを見せないのか。私には理解できなかった。
「・・・あぁ。泣いたよ。小さい頃は。あれから両親が離婚して母親が水商売やら何やらして俺を育ててくれたけど、日に日に母さんには男付き合いと高級ブランドのバックが増えていった。虐待する父親と男を次々と乗り換える母親の子。周りが俺を避けるようになった。いや、多分親にでも言われてたんだろうな。だから俺は感情を失いたかった」
「何でっ」
「だって悲しいことも何も感じなくなるんだぜ?お陰で今じゃ何も感じなくなったよ。小さい頃だっていうのにやたらと鮮明で残酷な夢にも何も感じなくなった。やっと人並みに生活できるようになった。成瀬さんもつらいならそうすればいい」
私は泣いた。久しぶりに自分のことじゃなくて相手のことに。なんて可哀想な人なのだろうと。私は彼のことを可哀想なんて言える立場じゃない。安易に思ってはいけない。でも思ってしまう。思わざるにはいられない。
「だからって! 何も感情を失おうなんてっ そんなのっ逃げてるだけじゃない」
私に何が言えるだろうか。何を言っていいのだろうか。何も彼を知らなかった私が言ってはならない言葉を放つ。でも、今は言わせて欲しい。
「あぁ、そうかもな。俺は多分、逃げ道を失って失って失って、自分の心に逃げ道を作ったんだ」
変わらず淡白な声で彼は答える。
「あなたは楽しいことも嬉しいことも笑えることも、友達と思いを共有することもそれにっ誰かに恋することも不要っていうの?」
「要らないかもな。・・・友達も恋人も家族も。俺には信じられないものの一つにしか変わりない。何かを信じるためには俺は信じれないものが多過ぎた」
「じゃあ! あなたが気を失って倒れそうになった私をとっさに手で支えて保健室まで運んでくれたのもっ! あなたの優しさじゃないの? 気を失って起きた時にどこも痛くなかった! 紛れもなくあなたがとっさに支えてくれたんでしょ!? 見ず知らずの男の子が倒れかけた私を支えて保健室まで運んでくれたって聞いた時に私は少なからず嬉しかったのに・・・」
私があの時見ず知らずの彼に感謝以外の感情を感じていなかったというとそれは嘘になるだろう。
「あれは・・・成り行きだ。俺の感情じゃない」
彼は否定する。
彼にとって感情を失った、いや失ったと思い込んでいるのは唯一信じられるものなのだろう。他のものが信じられない。
「そう・・・」
その先には言葉が続かなかった。今私が彼に何と声をかけられるのかが分からなかった。
「・・・ごめん。引き止めちゃって。もう大丈夫」
「そっか。じゃあ帰るね。またね、成瀬さん」
考えてみれば彼は手に抱いていた荷物を一度も床に置かなかった。私が彼に何も感じさせられなかったことをそれが一部物語っているようにも思えた。
同時に私は決意した。
私は彼に信じてもらえるようになる―と。
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