04

「なぁ、楓? ボタンがズレてないかな?」


 それが昨日私が父に投げかけられた最初の言葉だった。昨日はたまたま仕事が休みだったらしく、私が帰ってくるとそれはリビングに佇んでいた。

 その事実を瞬間に知らされた私の背中は凍る。


 ボタン・・・?私は恐る恐るyシャツを確認すると、yシャツのボタンが真ん中らへんで1つずれていた。紛れもなく、彼と会話した後の時のミス。あの時は急いでいて気づかなかったのだろう。


「ボタンをかけ間違えるなんて、楓らしくもない。はしたなくはないか?」


 また、これか。私の体は彼の言葉によって完全に硬直にされた。瞬間。彼の腕が私の首元に伸びてくる。そして、襟を一瞬で掴まれた。


「いやっ、止めてってばっ」

「・・・何? 父親である僕に逆らうのか。娘の分際でっ!」


 そういい彼は私を殴る。あきらさまに外から隠れたところを。


「ねぇ・・・学校に行くときはちゃんとしてたよねぇ」


 私は瞬時に父の意図を察した。


「楓・・・もしかして学校でyシャツを脱いだのかい? 誰に見せたのかな?」


 彼の表情は笑っていた。そして目が凍っている。


「もしかしてその傷・・・見せたりなんかぁしてないよね?」


 それは私が父の虐待を誰にも言ってないよねという質問。私は首を横に振る。いやそうしかできない。


「じゃあその育った胸を男の子にでも見せたのかな?」


 その質問には不意にも自分の目が揺らいだ。彼の顔が浮かんできたからだ。だが首を決して縦に振ることはできない。すぐに首を横にふった。

 しかし、彼はその目が揺らいだ一瞬を見逃さなかった。


「この淫乱女がっ! 僕はそんな風に育てたつもりはないぞ・・・? 俺の所有物なんだから、俺の言うことだけを聞いて、俺のいうとおりに生きて、俺だけを慰めていればいいんだよ!」


 彼は、実の父は手を私の陰部に伸ばし、もう片方の手でシャツをめくり上げてその手を中にしのばせる。


「ひっ!」


 私は一瞬伸ばしてきた手を押さえてしまった。それが彼の怒りのトリガーとなってしまった。


「おい、おいおい、おいおいおい・・・なんで俺の所有物が、持ち主に逆らうんだ?」


 動揺し、怒り狂った目を向ける。

 そして私を叩いた。殴った。蹴った。挙句の果てには先ほどとは打って変わって私を襲ってくる。陰部に手を伸ばし下着に触る。シャツから手を入れて私の胸を揉む。


―ピーンポーン

『宅急便でーす』


 「ちっ」と彼は残し、玄関に行く。私は救われたのか・・・。

 彼は、私の父親は外では容姿の良いイクメンの父親だと周りの家庭からは慕われている。運動もでき、小学校の野球クラブには何も関係ないのにコーチとして休日顔を出しているため近所の子供からも人気がある。だからこそタチが悪いのだ。


「ありがとうございます」


 そういい、笑顔で戻ってきた彼は、いや、笑顔はリビングに入るや否やすぐに消えた。その彼は不機嫌そうに口を開いた。


「くそっ、つまんねぇなぁ。あーあなんかやる気なくしたわ。もういいわ」


 一時的な安心感から一気に恐怖が戻ってきた私はやっと安堵する。ひどい傷を負いながら。


「・・・あ、誰かに教えでもしたら楓の恥ずかしい写真をインターネットだけじゃなくて、校内にもたくさんばらまいてあげるから・・・。わかってるよね?」


 そう私に釘を刺し、彼は私の視界から消えた。

 ヨロヨロと立ち上がり私は自室に入る。そしていつものように鍵を掛け布団にくるまる。


 そこで私の意識は一度途切れた。


 目が覚めると窓からは夕日が差していた。私がくるまっていた布団にはたくさんのシミができている。

 安堵、恐怖が次々と私を襲った。そして私は今の自分に絶望した。


「って」


 掛け布団から這い出ようとすると体が痛んだ。そして体が小刻みに震える。


「あはははははっ あはははははっ」


 誰かが私を嘲笑う。


「やめてよっ やめてってばっ!」


 私は泣いて叫ぶ。父親にバレないような小声で。


「あははははっ あはははははっ」


 だが、その声は変わらない。


 ふと、鏡が見えた。私がいつも朝使っている机の上に置いてある鏡。

 そこに写っていた私の口角は不自然に上がっていた。


 私を嘲笑っていたのは他でもない私だった。


 そして私はまた絶望して布団にくるまる。


 一体、誰に助けを求められようか。

誰か、私の点滅に気がついて―


 今日も体がだるい。一段と動かすのがツラい。それでも私は体を動かして学校に行く。それしか選択肢がない。誰かに勘付かれるのが怖いのだから。

 勘付かれて話が広まり、それが父親の耳に入る。それが最悪のシナリオなのだ。

「おはよー楓。体調は良くなったの?」


「うん、おはよ。奈々子。昨日はごめんねっ時間とらせちゃって」


 奈々子を失いたくない。それが私が無理矢理にでも学校に来る最大の理由だった。


「いやいや、大丈夫だって。で、そんなことよりどうだったのよ」


「どうだったって?」

 奈々子が興味津々に目を光らせて私に何かを聞いてくる。だが、心当たりも何もないので私は首を傾げてしまう。


「っえー“彼”よ“彼”! あなたを保健室に運んだあの男子!」

 奈々子はまだ興奮気味で聞くが、もしそれが有馬克人のことを示しているとしても私に一体何を聞きたいのか。皆目見当もつかない。

 その反応に奈々子の我慢が切れた。


「だぁから! あの“彼”とあの後どうなったの!? だって倒れているところを支えて保健室に連れて行ってくれた男子よ? 運命的でいいじゃん! 確かに地味って感じだったけど、顔のパーツは良かったし、なんか大人びたところがあってカッコいい感じだったじゃない? 楓とお似合いだと思ったんだけど?」


 やっと私の思考が奈々子に追いついた。・・・だが、彼に限ってそんなことはないと思う。なんせ私が上半身下着姿になっても動揺も何もせず、ただ淡々と話を合わせるだけなのだから。そんな彼に恋愛感情なんてあるのかと私は疑問に思う。


「別にそんな展開はなかったわよ。ホント好きねその手の話」


 私は呆れ気味にそう答えた。奈々子、いや女子高校生の大半は恋愛話がとても好きなのだろう。

 そして呆れる一方で少し気まずい気持ちにもなった。奈々子でさえ知らない秘密を彼は知っているのだから。無意識にこの話を拒絶したくなってしまった。


「あったり前じゃない! だって、あんな出会い漫画でしか見たことないもの。・・・で名前は聞いたの?」


 なお興奮気味で話す奈々子は私に聞いてきた。


「えっと、有馬克人っていうんだって」


 奈々子が「有馬くんかぁ・・・私狙ってみようかなぁ」と一人で何やら考え事を始めるとチャイムが鳴り、先生が入ってくる。

 勝手にすればいい。もう私が彼と話すことはないのだろうから。


「奈々子。私課題だし忘れてたから、先帰ってくれない? ホントごめんね?」


 痛みを我慢しやっとの思いで今日の授業を乗り切った。だが、どうやら痛みに耐えている間周りが見えなくなり、一つ課題を提出し忘れていたそうだ。帰りに出しに行かなければならない。

 奈々子は「そっか」と頷き、「大丈夫だよ」と補足した。


 終礼が終わると同時に私は職員室の方へ行く。今日は先生の会議が入っており、すぐに職員室がほぼ空になってしまうと忠告されていたのを思い出し、先生が職員室からいなくなる前を狙ったのだ。


 だが、職員室はもう半分ほど空になっていて私が目当ての先生を探している間も人が減っていた。ついには、課題を出すこともできず、落胆して職員室を退出した。


―ガチャッ


 落胆して職員室から目を離した視線の向こうにいたのは“彼”であった。

 今日の朝もう話すことはないだろうと思っていたのに、こうも偶然に見かけると動揺してしまう。


 特別に意識している訳ではない。だが、部屋に入る彼に何故か私は興味を惹きつけられてしまった。


 “彼”が入ったのは確かカウンセリング室だった気がする。それが余計に私の興味を引く。何故“彼”がカウンセリング室へ。それは私自身を突き動かすには十分な動機だった。

 幸いにも教職員は会議で少ない。また、放課後に入り、数分過ぎたため生徒の大部分は帰るか部活に行くかの2択で生徒の目もない。私は罪の意識を背負いながらも聞き耳を立ててしまった。いや、興味に抗えなかった。



―友達、ですか・・・ 仲の良い人はいますが、友達という存在を俺は信じられない、信用できない


 もう既に会話は始まっており、2種類の声が聞こえた。片方は昨日聞いた淡白で色気のない声。もう片方は女性の、おそらくカウンセラーの先生の声だった。

「信用できない」か・・・。不意にも彼らしいと思ってしまった。彼ならこんな発言をするかもしれないな、と。彼のことを何も知らずに。


―そうかぁ。その仲の良い子っていうのがあなたの友達になってくれるわよ。少なくとも相手はそう考えていると思うけどなぁ

―そんなことは俺にはわからないです・・・


 彼がカウンセリングを受けているのは友達がいないということについてなのだろうか。

 どちらかというと友達が作れないというよりは作りたくないと言っている。


―そう不信がらないの。あなたの過去の話は聞いたわ・・・ってここではタブーの話でしたね。ごめんなさい・・・


 過去・・・か。その瞬間私は彼から感じた底知れない哀しさを思い出した。会ってすぐに抱き、感じて、気づいた彼の哀しさ。


「・・・私、ひどいこと言っちゃたなぁ」


 昨日、彼の反応に逆上し、「何も知らないくせに」と叫んで自分を省みる。私は聞き耳を立てたこと等諸々謝罪することに決めた。

 カウンセリング室を離れ、職員室前のラウンジにある椅子を一つ取って座る。彼になんと声をかければ良いか、なんと謝ればいいかなどと考えていると体感よりずっと早く時間は過ぎていた。


―ガチャッ


 カウンセリング室のドアが鳴ったのを聞き、私は出てくる彼の元へ駆けつける。


「ちょっと待って」


 すぐに下駄箱に向かいそうな彼をそう言って留まらせた。

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