32

 コーヒーの苦味がどこか口の中から消えない中、俺たちは電車に揺られていた。

 未だ答えの出ない俺と成瀬さんの関係。自分がどう思っているのか、俺はまたよく分からなくなっていた。

 2人の間に今会話はない。家までの距離を着々と縮めているだけだ。

「降りよっか」

「うん」

 電車が家の最寄駅に留まり、成瀬さんが俺に声をかける。それが電車に乗ってからの初めての会話で家に帰るまでの最後の会話だった。


 その後も業務的な会話は交わせどどこか成瀬さんとの間には線引きがされているように感じた。不意に目に入る彼女の顔が、表情がどこか悲哀の色を感じた。


 昨日の加賀美先輩たちとの会話が伝わったのか、それとも俺の気のせいか委員長はよくこちらに話しかけてくるようになった。成瀬さんにだけじゃなく俺にも。話せば話すほど好青年っぷりの伝わる良い先輩だ。会話の節々には気遣いが隠れ見え、その上会話をしていて不快感を感じさせない明るさを持っていた。終始会話には笑みがこぼれ、俺も、そして成瀬さんもよく笑っている。


 彼女は男嫌いな印象があったと剛にこの前聞かされた。父親という男性から受けた暴力の数々が彼女に男に対する不信感を抱かせていたのだと思う。だが、そんな素振りは感じさせない。強いて言えばあまり自分からは委員長と喋ろうとしなかったというところくらいだろう。

 まだ彼女には父親から受けた傷が奥深く残っているように「男性」に対する不信感がたとえ少しであろうと残っているのだろうと、それが委員長の行動で無くなるなら俺にも好ましいことだ。


 そう、好ましいことなんだ。


 なのに、見る回数が少なくなっていたあの夢は最近連日で俺を苦しめる。

 また何かを失ってしまう。 

 あの夢が警告のように、そんなシグナルのように感じてままならない。


「今日、委員長にお茶誘われたんだけど……」

 時刻は下校時刻に差し掛かり俺と成瀬さんは委員会から帰宅の準備をしていた。

 疲労を感じながら資料を片付けていた途中隣から声が飛んだ。

「それで、成瀬さんは行くの?」

「その行くと帰り遅くなるかもしれないんだけど、その、それでっ夕食とか、どうしよっかなって……」

 別に成瀬さんが俺に許可をとる必要はない。彼女が委員長とお茶に行こうと、食事を摂ろうと俺には関係ないこと、いや成瀬さんのことを考えれば好ましいことなのだ。


「別に俺のことは構わなくて大丈夫だよ。折角なんだから行ってきたら?」

 だから俺はこう答える。それが正しい選択だと。

 それが俗に言うデートに類したものだという共通認識は持っている。加賀美先輩達から話されたことを踏まえれば分かりきったものだ。

「そう……だよね」

 首をゆっくり振りながら彼女は顔をあげる。だがその視線は俺の方向を向いていない。

「……克人君は良いんだよね?」

「別に俺が許可することじゃないと思うんだけど」


 なんで。そんな顔をするんだ。


「そ……そうだよね。ごめんっ変なこと聞いちゃって」

「いや、わざわざ夕食のことまで気を遣わせてごめん」


 違う。そういうことじゃない。分かっているはずだ。


「何かあったら連絡くれれば良いよ。委員長と楽しんできて」

「うん……」

 俯き気味にそう成瀬さんは答えた。

 

「じゃあまた」

 帰宅の準備が終わり委員会で仕事をしていた教室にて俺はそう告げた。

「うん……」

 成瀬さんの顔を一度見て俺は教室をでた。

 だから、なんでそんな顔をするんだよ。

 俺はただ君の傷を知っているだけ。誰よりも深く。でもただそれだけの関係だ。

 君の傷を、男性に対する不信感も委員長なら自然に直してくれる筈だ。


 俺にはできない。

 誰からも愛を受けたことのない俺が誰かにそれを注ぐなんて、そんな資格はない。

 俺は親に虐待を受け、傷を背負って生きてきたやつなのだから。

 どこへ行っても「虐待」の過去を一度暴かれればそれは伝染病以上の物凄い感染力で広まっていき翌日には好奇の視線に晒される。そんな俺とつるんでいた郡も剛にも迷惑をかけた。

 彼女の傷が癒えたらもう俺の必要はない。俺が迷惑をかけるだけだ。

 

 俺は誰かを好きになることなんてできるはずがないんだ。

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