10

 体が動かない。昨日蹴られた傷が響く。昨日、有馬君に信じてもらえるようになる、なんて大袈裟に決意したのに、もうこの様だ。

 相変わらず自分に絶望する。

 結局私は父親に蹂躙されるだけで、他人に何も与えてやれないのか。


 意識が覚醒してから、何時間が経ったのだろうか。玄関から大きな音がしたのを聞いた。それ以降家の中から音がしない。もう家には私以外誰もいないのだろう。

 その事実が少しだけ私の心の中に平穏を与える。と言っても体は満足に動かせない。トイレに行くのがやっとだ。ご飯を食べる気にも学校に行く気にも何かをする気にもならなかった。

 視界が少しずつボヤッとしていき、思考のスピードもどんどん落ちていく。そしてそのまま視界は暗闇に、思考はどこにいったかさえ感じさせずに私の意識はベッドの上で切れる。


 次に意識が覚醒した時には陽は少しずつ落ちていた。随分長い時間体を寝かしていたら少しばかり体が動かせるようになっていた。肉体的にも精神的にも。

 私を包んでいた掛け布団には所々シミができていた。おそらく私の涙によるものだろう。


 私は気分を変えるために着替えることにした。気分的にはついさっき起きたばかりで、服もパジャマ姿だ。一気に上下セットのパジャマを脱ぐ。目の前にある鏡には白い肌とそれに異を唱えるように、赤や紫の模様がまばらに散らばっている。

 鏡にうつる私はその痣さえ除けば見かけが悪いと言ったら嘘だろう。平均的に見て整っている容姿、成長過程で膨らんだ胸、白い肌。男性から見たら扇情的なものなのだろうか。

 だが、私は男に、父親に抵抗できないこの非力な体を憎ましく感じてしまう。


 私は所詮いいように扱われるものに過ぎないのだろうか。

 着替えるといってもこれから外に出る用事のない私は夏の暑さが残るこの時期に適した薄手の半ズボンと半袖シャツを取り出して着た。


 これもまた気分転換の一種として私は自室を出てリビングのソファーに座った。視線の先には壁時計がある。


 もう3時か。


 陽が落ちていたのは確認したが、思ったより時間が過ぎていた。夏は陽の沈みが遅く陽だけでは時間が判断できないなと感じる。

 もうすぐ学校が終わる時間だ。奈々子は心配してくれてるのかと思うと連絡の一つも送れなかったことに申し訳なさを覚えた。


―ガチャッ


 この時間帯、なる筈もないドアの音がなる。両親ともに働いており、この時間に帰宅するということはほぼない。だが、ドアの音がなったという事実を感じると正体が母親であれ・・・とどうしても願ってしまう。


 母は、私を助けてはくれない。父が私を痛ぶり、虐め、犯したことを知っている。でも彼女は私を盾にした。標的が移っていったのを喜びながら。


 それでも私に実害を出さない母があのドアの音の正体であって欲しいと、どうしても思ってしまうのだ。


 足音がこちらに近づいてくる。10年以上一緒に住んでいればその足音の大きさから誰が来たのかわかってしまう。私は絶望した。


 ドアの裏から姿をリビングに表したのは父親だった。


「・・・なぁ、楓。学校から急に休んだって聞いて上司に頭まで下げて帰ってきたのになんでリビングでくつろいでいるのかな?・・・俺に迷惑かけてんじゃねぇよ!」


 帰ってきて早々父は私に叫ぶ。


 さっきまでは部屋で休んでいたなんて言葉聞く耳も持つはずがないだろう。彼は私を虐めるために怒っているのだから。


「どうやって俺に迷惑かけたことを謝罪するんですか!?答えろよ!答えろよ!」


 私は俯いて怯えるしかなかった。


―リリリリリン! リリリリリン!


 父の携帯が鳴る。この男の認識がやはり父親であることに私はまた絶望する。


「あ、今家つきました。・・・いえ。私にも連絡が来てなかったものですから心配していたのですが・・・はい、もう今はかなり調子が良くなったみたいで。・・・いえ、ありがとうございます。はい、失礼します」


 態度が打って変わったあの男は電話を切ると態度をまた元に戻し、「チッ」と舌打ちを鳴らす。


「おい。さっきから何ずっと黙ってんだよ!まずお前の所有主が帰ってきたら「おかえりなさい」だろ!・・・ちょっとこっちこい」


 そう言って私の髪の毛を掴んで無理やり私を動かす。何も抵抗できずに向かった先は洗面台だった。そしてあの男は何も言わずに、洗面台に勢いよく水を張る。以外にも深い洗面台は水を満杯まで張れば私の顔くらいすっぽり水の中に浸かることを私はで知っていた。


 水がある程度溜まると、私の頭を掴む力がまた強くなる。あぁ、私はなんて非力なのだろうか。


―ジャバッ!


「・・・んー!んー!」


 予想通りその中に頭を突っ込まれた。10秒、また10秒・・・今は何秒経ったのだろうか。悲鳴にもならない悲鳴が上がる。

 苦しいっ・・・


―バシャッ!


 また私の頭を掴む手に力が篭り、強引に顔をあげさせられる。

「ぶはっ! はーっ・・・はーっ」


「おい、俺になんかいうことないのか?」


「はーっ ごめんなさい。ごめ・・・」


―ジャバッ!

 抵抗はできない。抵抗する力がもうなかった。


「んー!!んー!!」


 今度は耐える暇もなく肺に限界がやってくる。これからが本番なのだ。

 10秒・・・10秒とまた時間が経つ。苦しくて正確な秒はわからないが。


 助けてっ・・・


―バシャッ!


「ぁーっ ぁーっ」

 もう私の呼吸は言葉にすら表せないほどになっていた。


「誠意がねぇんだよ!誠意が!」


―ジャバッ!


 また顔をひんやりとした水が覆う。今日は何回これが続くのだろうか。私がいくら言葉を尽くそうが、あの男の気分次第で何回続くのかが変わるだけなのだ。


―バシャッ!


「―っ ご、ごめんなさいっごめんなさいっ! なんでもするからっなんでもするからっ!」


 それでもあの男の行動を言葉で中断させることに希望を捨てざるにはいられなかった。余った数量の空気を使い切った。

 すると、意外なことに頭にかかっていた力が抜けていった。


「なんでも・・・だよな?」

「なんでもしますからっ お父さんのいうことは聞くからっ!」

「父親は最高か?」

「父親最高っ!」


 言われたままに叫ぶ。


 私はやっぱり自分に絶望せずにはいられなかった。自分を嗤わずにはいられなかった。非力で惨めで小さい私を。


「じゃあ父親の恩恵をありがたく受けちゃおっかな」


 彼の目は水しぶきによってシャツが透けてしまっている胸に行っていた。


「・・・でも、会社にちょっと連絡だけするから、少しだけ待ってあげるよ」 

 恩恵を受けると言いながら自分の都合でそれを遅らせることを恩義として私に言うあの男の態度はもう理解不能だった。

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