17
「ごめんっ 制服汚しちゃって」
駅のトイレから戻ってきたところ、成瀬さんは申し訳なさそうにそう謝った。俺としてはもう今更、制服のシミだのなんだの気にすることはなかったのだが。
「別に大丈夫だから、成瀬さんは気にしなくていいよ。荷物は?」
あの量の涙くらい水で洗って自然乾燥させておけば特に気にすることはない。だから本当に成瀬さんが謝る必要はなかったと思う。だが、彼女はそれでも謝らなければならないと感じたのだろう。それで彼女の気が楽になるのならその謝罪をしっかり受け止めた上で「大丈夫だから」と答えるのが最適解であると俺は思う。
一方、彼女は俺がトイレに行っている間コインロッカーにあの大きな荷物を入れてくると言っていた。流石にあれを持って学校に行くというのは同伴者の俺でも恥ずかしくなる。確認作業としてその結果を聞いた。
「コインロッカー入れてきた。また帰りによるけどいい?」
「じゃあ、私もちょっとトイレ寄ってくるね。ここしか着替えられる場所なさそうだし」
成瀬さんは俺と入れ替わりになるような形で、制服に着替えるため、女子トイレに姿を消した。
もう学校の教室では少しずつ人が溜まり始めているような時間だが彼女はまだあのTシャツだ。肩のあたりにシミができているあのTシャツ。直後に洗えばよかったと思うのだが、彼女は洗わずにシミとして取っておきたいと言っていた。変態・・・ではないだろうが何故?とどうしても思ってしまう。
着替えるだけだったので彼女はすぐに制服姿で戻ってきた。
「じゃあ、行こっか」
駅の改札口を通り、駅のホームまで顔を上げて歩く。さっき泣いていた彼女の顔はもう晴れやかなものになっていたが、俺にはそれが取り繕い、無理している笑顔に見えた。だが、俺が指摘するようなことではない。誰に感情を放てばいいのか、どうすれば自分の傷が治るのか彼女が悩んで悩んでまだ答えが出ていない。ここで俺が何を言ってもやはり彼女は悩むだろう。そんな早く立ち直れるものではない、俺たちの傷は。
無論彼女が感情を抑えきれずにどうすればいいか分からなくなったとき隣にいるのが自分であればいいと思っている。彼女がそうしてくれたように。
だが今は、俺が何か彼女に言葉をかけるより彼女の隣にただいてあげる方が彼女のためになる、俺はそう思った。
この笑顔は彼女が俺を気遣ってそうしたもの。不安定な気持ちを抑えて彼女が精一杯堪えているのだ。やはり、今ここで俺が彼女に指摘するのはやはり間違っている。
高校の最寄り駅までは電車で数分かかるだけ。その間俺と成瀬さんの間に沈黙があってもまだ耐えられる時間だった。
彼女の趣味、特技、関心事を知らないように、彼女も俺の趣味や関心事を知らない。元々俺にそのような類のものがあるのかどうかも不明だが。だから当然2人の間には雑談というものが芽生えなかった。話の切り口が見つからないのだからしょうがないと言えばしょうがない話だ。
一体、俺と成瀬さんの関係は一体どういうものなのだろうか。沈黙が続くと勝手に彼女とどのような関係かという思考に進んでいってしまった。
男女の仲として、ではないが共に一つ屋根の下で一晩を過ごしているし、表層上のことは何も知らないが心の傷を見せ合っている。彼女とどのような関係に発展していくのか、それはどうしても避けられない疑問。
良い意味でと前置きをするが、彼女と俺の関係は極めて異質なもの。その間に何を感じているのかと聞かれると少々答え辛いが、今は彼女が隣にいるとどこか気持ちが落ち着いている自分がいることは自覚した。時間が長すぎると気まずくなってしまう会話の交わされない静かな時間だが、2、3駅電車が動く時間であれば彼女と会話がなかろうとどこか心が安らぐものがあった。その感情が一体どのような名称であるのか、俺には分からない。
電車のドアが開く。またも彼女が俺を先導して駅を降りる。
気が付けば時間はもう始業30分を切っていた。この時間帯になるとこの駅は俺や成瀬さんと同じ制服を着た生徒で一杯になる。サラリーマンがこの駅に向かってくる流れというのもあるが、大勢の高校生が学校に向かう流れを前にしては多勢に無勢でものすごく小さなものに感じる。マンモス校ではないが、そのくらいの人数が駅から一斉に高校へ流れていた。
歩いていれば見かけたことのある顔も多数いる。常に一人か中学生あるいは小学生からの友達である郡か剛にしか喋りかけられない俺が成瀬さんと歩いていれば変、と言っては大雑把すぎだが妙に物不思議そうな視線で見られることもあった。嫌といえば嫌なのだが特に気にするほどではなかったため俺はその視線を無視することにした。
「なんかちょっと恥ずかしいね」
が、成瀬さんはそうとはいかなかったようで俺よりも顔の広い彼女は周りに見知った友人がちょくちょく色めきだった視線を向けられるのが恥ずかしそうにそう呟いた。
「私たちの関係ってなんなんだろうね」
成瀬さんは先ほどまで俺が考えさせられていた疑問を口にする。
「さぁね。成瀬さんが俺にどう思ってるかは知らないけど、俺はなんか落ち着くからそだけでいいかなって思ってるんだけどね」
そういうと、彼女は周りの視線に対する恥ずかしさから少し赤らめていた顔をまた一段赤くして俯いた。
「そ、そう・・・」
それだけ述べてまた会話が閉ざされる。別に失言したつもりではなかったのだが思いもよらずに彼女が黙ってしまったのを見ると先ほどの沈黙とは違ってなんだが気まずい気持ちになってしまった。その沈黙は高校に着くあたりまで続いた。
「よっ、楓って・・・有馬君じゃん。あっ、ごめん邪魔しちゃった? 私先教室行ってるね」
成瀬さんが急に横から声を掛けられる。ずっと会話が交わされず気まずくなっていたところ急に声を掛けられたので成瀬さんは急に背筋を立てるほど驚いていた。
「ちょっ、奈々子っ。私と克人君はまだそんな関係じゃ・・・行っちゃった」
前田さんは「が・ん・ば・れ」と成瀬さんに口パクして伝えると走ってどこか去っていった。
気まずい時間が長い時間続いていたがそれは2人の共通の知人によって踏み荒らされて終わりを告げる。
「ご、ごめん。克人君・・・なんか奈々子が変なこと言っちゃって」
沈黙の間、少しずつ冷えていった彼女の顔はまた赤く染まって元どおりになっていた。
そんなに顔を赤らめて謝られると返答に困ってしまう。
「い、いいよ謝らなくても。そりゃ前田さんからしたら俺と成瀬さんがいきなり一緒に歩いていたら勘違いすることもあるだろうし」
とりあえず彼女の謝罪に対して気にすることのないように返答すると、彼女は顔の色こそ変わらなかったものの少し安堵した表情になり、俺も安心した。
高校の校門をくぐると、もうそこから教室まではあっという間で成瀬さんに「また後でね」とだけ声をかけられると俺と彼女は別々の教室に向かっていった。
家から学校に着くまでの時間。これまでは何も思わなくただ当然のように消費していたその時間に今日は何かを感じた。またしてもその何かが俺には分からなかったが、それは俺にとっては、心地よかったり、すっきりしたり、時には落ち着いたりした。その因は成瀬さんと時間を共有したということは俺にもわかる。
俺は久々に「誰か」ともっと一緒にいたいと感じた。その「誰か」に成瀬楓の名を入れて。
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