20
「ごめんっ。ちょっと横なっていい?」
家に着いた途端、成瀬さんはそう言った。まだ彼女の体にはたくさんの痣が残っている。あの痣の量だ。治るのにはもう少し時間がかかる。たとえ、痣が消えてもそれが彼女を過去から解放したということそのものではない。だが、それは彼女が過去から解放される一歩であることには違いない。ただ、早く治れと思うしかできない自分にもどかしさを覚えた。
あの痣に耐えて平然としていたら普通、何時倒れてもおかしくない。体を動かすこと自体が苦痛に感じるはずだ。現に彼女の額には汗が滲んでいた。
「じゃ、またベッド使って。水でも飲む?」
昨日成瀬さんに寝てもらったベッドに横になるように促した。水を勧めたのは彼女に何かしてあげたかったのか、ただ単純に夏の終わりのこの時期、喉が乾くものだと思ったからなのか分からなかったが。
「ありがと」
ベッドにたどり着いた瞬間彼女は全身から力を抜いてベッドに突っ伏した。
「あっ、ごめん。汗かいてるのにベッドにそのまま寝ちゃって」
「いいって気にしなくて。まぁシーツは予備あるし」
そんな些細なこと気にしていられる体の状態ではないのに、と思う。今はそんなことどうでもよかった。
「成瀬さん・・・毎日こんな感じだったの?」
「うん。大体・・・」
毎日体を動かすのに体を傷ませ、ギリギリのところで家に着いて倒れる。それが毎日なのかという質問は全く否定されることなく答えられた。
「克人君」
不意に名前を呼ばれた。その声は震えている。
「私たちってさっ、どうやったら過去から解放されるのかな」
言葉が終わるに連れてその震えは大きくなった。今朝のことを思い出したのだろうか。
「それは、俺にも・・・」
分からない。答えがあるなら求めたい答えだ。
彼女の顔を見ると既に涙を浮かべていた。
「ごめん・・・なんか克人君にあってから毎日泣いてるね、私」
「泣きたい時は泣けばいいよ。成瀬さんがそう俺に教えてくれたじゃん」
俺に泣いていいと教えてくれたのは彼女だった。俺に感情を出せばいいと言ってくれたのは彼女だった。俺は彼女が感情を吐き出せる場所になりたい、そう思う。
「克人君・・・私の涙のストックはそんなにないよ。たくさん泣いて泣いて泣いて眼から出る涙がなくなったとき、私は逃げちゃうのかな」
成瀬さんは昨日とはまた別のことを述べた。決して彼女が優柔不断とか言っていることがあべこべという訳ではない。彼女自身が被害者の一人で、言葉を欲している不安定な一人なんだ。
「ねぇ、克人君。私もいつか感情を失いたいとか思っちゃうのかな。克人君とか奈々子に何も感じなくなりたいと思いたくなっちゃうのかなっ・・・」
彼女は涙を流しながら訴える。その相手は彼女自身だった。
「・・・成瀬さんが今朝言ってくれたじゃん。俺も隣にいるから」
今朝の彼女の言葉を引き合いにそう返した。成瀬さんはもうすっかり嗚咽していた。
「・・・ごめん。口下手で、自分の気持ちがうまく言葉にできなくて」
彼女にかける言葉を彼女が今朝掛けてくれた言葉を引き合いに出したのは結果的に他人に頼ったことに違いない。彼女に何といえばいいのか自分の心を上手く表せなかった。
「・・・ううん。ありがと」
数秒の間の後、呼吸を落ち着かせた成瀬さんはそう言った。
「克人君。ちょっとこっちに来て」
ベッドのそばにある椅子に座るようなぜか促された。何故とも言えない雰囲気なので特に気にすることなく座る、いや座ろうとした。
「えっ」
成瀬さんは俺の腰が椅子に落ち切る前に手を俺の首裏に回した。
「ごめん。ちょっとこれが落ち着くから」
突然のことで体が固まり、椅子に座ることを忘れていたが徐々に思考が戻り椅子に座り直した。トクンッ・・・トクンッ・・・と彼女の鼓動が伝わる。
手持ち無沙汰な俺の両手の行先に迷ったが、結局彼女の背中に手をまわした。そうするべきだと思ったのか、そうしたいと思ったのかまた俺には分からなかった。だが、彼女と抱き合っているこの体勢が不思議と不快なものではないように感じた。
彼女の悲しくて流れる涙がなくなったとき、それが喜の感情によるものであって欲しいとそう思った。
*
気がつくと彼女は小さい寝息を立てていた。彼女の体をベッドに寝かして俺は夕食の準備をした。といってもこれまた簡単なご飯を作るだけだが。
次に彼女が目を覚ますまでもそこまで時間は掛らなく、一緒にご飯を食べ、順番にお風呂に入り、一緒に少しばかり残った課題を済まして、別々に寝た。
ちなみに彼女が持ってきた大量のバックは部屋の隅と余った本棚を活用して収容した。そして今日は成瀬さんが俺にベッドで寝てといわれ、成瀬さんがソファ、俺がベッドに寝ることになった。
「おやすみ」
彼女にそれだけ声をかけるとベッドに横になる。彼女から落ちた涙はもう乾いていた。今日は俺も彼女もたくさん泣いた。今思い出すと笑ってしまうほど。今日はとても濃かった。これまでただ流していた涙だが、今日は少しでも、ほんの少しでも前に進めただろうか。あの涙に俺と成瀬さんは意味を見出すことはできるだろうか。そんな疑問を持ちながら俺の意識は途切れた。
そして、意識の失った漂着点はまた、あの夢だった。
暴言を吐かれ、殴られ、蹴られ、そして水の中に顔を突っ込まれて苦しみながら意識が覚醒する。
「はぁっ・・・はぁっ・・・」
背中にはTシャツがくっついている感覚。額には生温い汗が滴り、息は荒れていた。部屋を出るとまだ成瀬さんは寝ていたので邪魔にならないように風呂場へ向かった。
汗を流す。朝にシャワーを浴びる。それは世間的に見て気持ちの良いものなのだろうが、俺にとってはただの作業でしかなかった。さっさと汗を流して体を拭きリビングに戻った。
ソファからはみ出た腕をこっそりと彼女の体の上に戻す。彼女の寝顔をじっと見てしまう。「スーッ スーッ」と立てるわずかな寝息と彼女の寝顔に見入ってしまった。いや、自分が彼女の寝顔に見入っていることに驚いた。
彼女の寝ている安心そうな顔を見ていると心が和らぐのを感じた、だからだろうか。
俺にとって夢は悪夢が出てくる場所だが、彼女は寝ているときこそ痣に苦しむこともなく、あの父に虐められることのない安心できる時間だったのだろう。
まだ頭に残っている眠気を吹き飛ばすためにコーヒーを入れる。いつもよりはお湯の量とコーヒーの量が違った。成瀬さんがコーヒーを飲むかは分からないが一応淹れようと思う。
しばらくすると成瀬さんは眠そうな視線をこっちに向けて「おはよう」と力なさげに言う。
「コーヒー飲む?」
「あ、ありがとう・・・」
飲めるらしかったのでコーヒー一杯分が入っているマグカップを渡した。
「いぃっ。克人君ブラック飲むの!?」
砂糖でも入っていると期待していたのか彼女はコーヒーを口にすると苦そうに顔をしかめて質問してきた。だが、ブラックコーヒーのお陰か彼女の表情から眠気はもう見えなかった。
「ブラック無理だった?」
「恥ずかしながら・・・」
成瀬さんは少し顔を赤くして自身なさげに俯いた。
彼女に砂糖の場所と牛乳が冷蔵庫に入っているとだけ伝えると彼女は味を自分で調整してコーヒーを飲み干した。
朝の支度を始め、制服に着替える。俺は自分の部屋で、成瀬さんはリビングで着替えた。男子の俺が狭い個室でというのもおかしな話かもしれないが、なんせクローゼットの中に服を収納しているのでそうするのが忘れ物ハプニングの懸念もない最善の方法だった。
今日も一緒に登校した。昨日と違った点は話題があったことだ。文化祭実行委員を半強制的に押し付けられたので、何の仕事をするかとか彼女と話し合っていた。本当ならいつ倒れてもおかしくない彼女のサポートのためにも一緒の仕事にする必要があると勝手に思っている。
途中前田さんに茶々を入れられたが、特に何事もなくそれぞれの教室の分かれ目で「またね」と声を掛け合った。
かなりの生徒に俺と成瀬さんが一緒に登校しているのを見られていたと思うが、それに興味を示して俺に質問するような人はいなかった。いや興味以前に俺に声をかけるやつは剛以外いなかった。
「おぃ、今日克人が違うクラスの女子と歩いてたっていう噂を聞いたんだがっ」
「たまたま」
特に追求される必要もないし、というよりされたくもなかったので淡々とあしらった。
「ねぇ克人、ちょっと良い?」
午前の授業が終わり昼休みに入る。ご飯を買いに購買へ行こうとしたところ郡に声をかけられた。
「郡。急に引っ張られても」
急に声をかけられたと思ったら急に袖を引っ張られ、人気のないところに連れて行かれた。
「ごめん。それは謝るよ。・・・ねぇ、克人と楓ちゃんってどんな関係なの?」
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