15
―シャワァァァ・・・
勢いよく水が出てくるシャワーの前に立つ。体の汗をシャワーから出た水が流していった。
夢で苦しんだ分、いつもより汗をかいている、という俺の予感は外れていた。いや合っていたには合っていたに違いないだろうが、今俺の体についていた汗の量自体は少なかった。彼女が持っていたタオルを見るに彼女が見える部分の汗を拭いてくれていたのだと思う。
今日はあの夢を感じてしまった。
いつもは髪によって隠されている傷跡が、髪を洗う最中に濡れた髪を掻きあげるとその姿を表す。そこに何か変化がある訳ではない。だが、何故か今の俺にはやたらとその傷が目についた。
逃げたい。
感情を失いたい。あの夢を感じることを恐怖する。
俺にあの夢を克服できるはずがない。逃げるので精一杯だ。あれが自分のベストなのだ。そう思っていたかった。
これまでの感情を失おうとした行動は正しかったと思いつつも、やはりまだ自分があの悪夢に取り憑かれていることを自覚する。
「俺はどうすればいいっていうんだよ・・・」
風呂場の壁に背中をもたれ、腰を落として無気力に俯いた。
右手にはまだ彼女が手を握ってくれていた感触が残っていた。初めて悪夢に苦しんでいる俺に差し伸べられた手。
あの手、温かかったなぁ。
あの悪夢から醒めた時に感じた右手の感触は。温かった。体温とは別に温もりというものを感じた。誰かに助けを求めた結果、彼女が手を握っていた。
その右手をまじまじと見る。
そしてまた自分の中の感情を自覚する度にあの夢を怯えた。
シャワーを浴びていた状態から腰を落としたので、シャワーはまだ止まっていなかった。流しっぱなしのシャワーが額にあたる。シャワーの水は俺が流していたかもしれない涙と混同してその存在を隠した。
体を洗い、タオルで体を拭いて着替えてからリビングに戻った。
シャワーから上がると、彼女は冷蔵庫の中を確認していた。
「ねぇ、有馬君。朝ごはんって何食べたい?」
「・・・いつも朝はシリアルかカップ麺かインスタントで済ませてるから、別に大丈夫だよ」
彼女がいかにも今からご飯作るよとアピールしていたが、昨日の夜本当に簡易な物しか出せなかったことを思い出し、その気まずさから遠慮した。
「ダメだよ。男子高校生がそんな朝ご飯じゃ! 私何か作るから、冷蔵庫にある材料適当に使わせてもらっていいかな?」
どうやら彼女の料理を作ろうという意欲を逆に高めてしまったらしい。「わかった。ある物ならなんでも使っていい」と言って彼女の親切心に預かることにした。
成瀬さんが朝から家にいる。これは極めてイレギュラーな事態ではあったが、世間的に見えればただの平日の朝でしかなく俺と彼女は今日も学校へ行く必要がある。昨日急に俺の家にきた成瀬さんは学校へ持っていくノートや筆箱、制服も何も用意していない。なので昨日彼女は彼女の父親に連絡を入れて、学校にいく前に制服と荷物だけ取っていくことにしたようだった。昨日の脅しが効いていたのか素直に聞き入れてくれたという。念のためにも俺がついていくこととなっていた。
数分が経つと、彼女は手招きして俺を食卓に座らせた。誰かと家で食卓を囲む。俺は不意にもそれが美しいものだと感じる。
「いただきます」
彼女が作ったものは本当に朝食らしいものだった。味噌汁、ご飯にほうれん草の胡麻和え。魚が入ればそれこそザ・和食であったとは思うが残念ながら魚は買っておらず冷蔵庫にはなかった。だが、朝ごはんとしてはこのくらいが丁度良いものだと思う。
何年ぶりだろうか。朝食を誰かと一緒に食べる事は。家族がいたらこんなことが毎日できるのだろう。
最初に俺はほうれん草の胡麻和えに手に箸を伸ばした。量が少なく一番手を付けやすかったからだ。ほうれん草の胡麻和えが入っていた小鉢を空にすると次に味噌汁に箸を伸ばす。具材にはしめじ、豆腐、わかめが入っていた。
「どう?」
彼女は俺の顔を覗き込むように味を聞く。彼女の料理は美味しかった。無茶苦茶美味しい訳ではなかったが、不味い訳でもない。ただ美味しい。壮大な形容詞をつけるのではなく、ただ素直に美味しい。これが一番の表現だと思った。
「美味しいよ」
だから俺は素直に、端的にそう答えた。
「良かったぁ」
彼女は顔を崩して笑う。その笑みには嬉々とした感情よりも安堵、安心といった感情が多く見受けられた。
彼女が作り、俺が食べる。「誰か」ではなく彼女が俺のために作ってくれた料理を俺が食べる。それが味よりも舌に強く「美味しい」と感じさせた。それはごまかしなんかではない。何らかの「想い」を持って作った料理。その想いも一種の味だと俺は感じる。
この「味」は俺が初めて感じたものだった。
「有馬君・・・?」
再び彼女が俺の顔を覗き込むようにして見てくる。その顔には困惑しているような感情が見える。何故、だろうか。
彼女はそっと手を俺の目元に伸ばす。彼女の手が目元にあたったことで忘れきっていた額の感覚が戻り、何故彼女がこのような行為をしたかを理解した。
「え・・・?」
俺は泣いていた。
号泣、ではないが、気づかぬうちに涙がスッと俺の額を流れている。
もう何故、とはならなかった。答えはわかっている。俺は、このささやかな愛情の上によって成り立つ行為を嬉しく、そして美しく感じていた。ただ、感動していただけなのだ。
「ご、ごめん」
咄嗟に謝って俯く。
彼女の表情からはもう困惑の色はなくなっていた。
―ガタッ
彼女の方から音がしたと思い顔を上げた頃には俺の顎は彼女の肩に乗っていた。大きくはない、いや小さめの食卓は立ち上がれば相手にすぐ手が届く距離しかなかった。
「泣いてもいいんだよ。それが感情だもん」
彼女はそう呟く。
ずっと空になっていた心に温かいスープを流すように。
「俺は、あの夢が怖い。だから何も感じなくなりたい」
それは俺がずっと信じていたあの夢の解決策だった。
「私がいるから。感情をなくすことを信じるんじゃなくて、私を信じて。有馬君がどんな夢を見ているかは私にはわからないけど。隣には私がいるから。独りじゃない。有馬君がその苦しみから逃れられるまで、私も一緒にその苦しむから」
額を流れる涙の量が増える。彼女の頬が首元にあたる。やはり、彼女は温かかった。
「・・・だから、苦しむ分、楽しいことも嬉しいことも一緒に感じよう?感情は苦しいものだけじゃないよ」
「たくさんの感情を俺は忘れた。それでもまた色んなことを感じられるか?」
世の中には感情というものはいくつあるだろうか。言語化されているものだけで数えられない数がある。いや、人それぞれ似通った感情を抱いてもそれは同一のものではない。十人十色でそれぞれの感情を常に抱いている。
その何個もある感情にまた触れる事はできるのだろうか。
「これからまた感じればいいよ。有馬君がこれまで味わったことのない幸せや楽しさだってあるんだし」
この状況、これらのセリフ。人によっては恋仲になる前の告白とも捉えられるだろう。彼女は一体俺の何になるのだろうか。そんな疑問を浮かべながら彼女の肩の上で俺は頷いた。
「ありがとう」
俺は彼女に対し、素直に感謝を述べた。そうすると彼女は腕をほどき、こちらを嬉しそうに見てきた。
「・・・私を救ってくれてありがとう。えっと・・・か、克人君」
妙な間があったが、それは決して俺の名前を忘れていた、という訳でないように見えた。彼女がこちらに「いいのかな?」と気恥ずかしそうに見ていたからだ。
お互いに恥ずかしくなって視線をそらす。視線を逸らした先のベランダからはすっきりと晴れた青空が見えた。
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