12

 何故、俺は走ったのだろうか。


 一つの謎、いや動揺が俺の中を駆け巡る。


 電車に乗っている時以外、高校からここまで俺は全力疾走した。背中と制服のyシャツがくっ付いている。それは毎朝俺が感じる感覚であったが、朝のそれと比べるとその汗は達成感を含んでいた。

 動揺と、困惑と、達成感が入り混じりに俺の感情を掻き立てる。気分は気持ち悪いものだった。吐き気とかの気持ち悪さではない。この感覚が未知のもの故に、それが思考の半分以上を占めてしまっているから、どこか宙に浮いた気分がしたのだ。


「・・・ありがとう」


 お互いに困惑と動揺を抱えた中、先に沈黙を破ったのは成瀬さんだった。楓も動揺の色をその瞳に浮かばせていたが気持ちの整理ができたのかその表情からは嬉々感と安堵している様子がうかがえた。


「ほんとにっ・・・ほんとうにっ・・・有馬君っ・・・」


 成瀬さんの言葉がつまずく。

 その目元に涙を浮かべていたが、変わらずその表情は嬉しそうなものだった。

 そしてこの表情にまた自分も安堵しているということに気付く。


「・・・・・」


 だが、言葉が浮かばない。自分が今成瀬さんに対してどう思っているのか、成瀬さんを何故救おうとしたのか、自分の中で自分の行動に対する理解がまだ進んでいなかった。


 瞬間。成瀬さんの額を流れる涙の量が増え、服の袖で拭きれない涙をボロボロと落とし始めた。そして、俺の胸の中に飛び込んできた。


 泣いている姿を周りに見られたくなかったのか、俺のyシャツをハンカチがわりにしたかったのか、その真意はよくわからない。

 咄嗟に飛び込んできた彼女に俺の心は動揺したが、体は不思議とそれを受け入れていた。彼女の肩から背中に腕を伸ばし、彼女の背中で自分の腕を掴んで、彼女を包んでいる。

 彼女は小さい子供のように泣いた。涙を流し、声をあげて、鼻をすすって。誰にも打ち明けられなかっただろうその気持ちを初めて俺にぶつける。

 彼女の背中からは心臓からの振動が微かに伝わってきた。そのリズムと彼女の涙は俺が包むと比例するように落ち着いて行く。

 それを感じて、俺は腕を解いた。彼女もそれにつられて離れる。


 それから、俺の家に着くまで、俺と成瀬さんはお互いに気まずい緊張を抱き、沈黙が続いた。沈黙が隠していたのは先の行為の恥ずかしさと俺の中でまだ止むことのない動揺だった。いや、隠していたというよりは先延ばしにしているのだろう。とにかくこの動揺に答えを求めたくなかった。その答えは自分を救った唯一の逃げ道を批判することそのものなのだから。

それを自覚していてもなお、まだ受け入れられなかった。

 成瀬さんの家ほどではないが、高校からそこまで家が遠くない俺の家は成瀬さんの家から20分もすれば十分到着する場所だ。

 俺は成瀬さんを家に上がらせる。女子を自分の家に入れたのはこれが初めて、ではない。高校になってからはこれが初めてではあるが、中学の頃まではよく郡が遊びに来ていた。とはいえ直近では女子、いや男子であろうとこの家に招いたことはなかった。招く欲求も沸かなかった。

 ただ独り俺が生活している家はよく言えば落ち着いており、悪く言えば寂しいものだった。

 俺には母親がまだいるが、彼女の姿も女性の生活感もこの部屋からは窺えない。名義も母で、家賃も母が払っているこのアパートの一角にある部屋だが、実質俺の一人暮らし状態だった。母は数ヶ月に1回帰ってくる程度で、その間は男を作って寝泊りしている。

 中学生の頃までは、母が新しく作った男がこの部屋で母と寝泊りすることも度々あったが、母が連れてくる男たちは揃って俺のことを邪魔者扱いするので、次第に母も俺のことを邪険に扱うようになり、それ以降母は、この部屋を空けて新しくできた男の方に居座るようになった。この部屋の家賃だけは払うのは母なりの罪滅ぼしなのかどうなのか俺は知らない。ただ、この状態はお互いにとって良かったと思っている。

 今はもう性的なものに理解ができているが、小学生の頃部屋の隅に追いやられていると母と母の連れてきた男が俺の存在を無視して当然のようにそういう行為を始めたとき、明らかに母の声だろう喘ぎ声を聞いて小さい頃の俺がどう思ったのだろうか。思い出したくはない。


「・・・落ち着くまで、ここいていいから。俺、ほぼ一人暮らしだし」

 『落ち着くまで』とは気持ちの整理がつくことと、彼女が両親とどう接していくのか決心するまでだと俺は思っている。

 数日間彼女が俺が住んでいるこのアパートで寝泊りをしても良いという提案だった。

 成瀬さんは「ありがと」と呟く。一人暮らしの理由を聞くほど彼女は図太い人ではなかった。

 あの父親がいない部屋だから、だろうか。やはり彼女の顔は安堵の色が浮かんでいた。男で、しかも高校生にもなるやつの家に上がれば普通の女子高生であったら少しは警戒するだろうと思っていたが。例えそれがお互いの承認がある上での行動であろうと、やはり緊張はするのではないだろうかと、経験のないものに答えを求める。


 太陽はあと1時間もすれば陽が落ちるか落ちないかの高さにまで落ちてきていた。


 とはいってもお互いにすることがなく、ただただ無言で時を過ごす。ゲームもない漫画もない俺の部屋に特に何も持ってきていなかった彼女はただただ俺の部屋を物色して時を過ごしていた。

 その後の流れは俺が独りであろうと成瀬さんがいるであろうといつもと変わらないものだった。冷蔵庫に残っていた食材で適当にご飯を作り、順番に風呂に入る。

 あくまでも俺が成瀬さんに与えるのは居場所であったので成瀬さんは「美味しい」とはいっていたが、その晩ご飯は極めて普通で簡易なものだった。


 お互いに寝るまでただ時間を消費し、10時のあたりで俺は成瀬さんにベッドで寝るように促す。

 ただただ時間を消費していた間何を考えていたのか、先ほどの安堵の色だけではなく、気のせいか思い悩んでいるような色が彼女の目には浮かんでいた。


 彼女は「分かった」と俺にいった後、心配そうに「有馬君は?」と聞いてきた。小さいアパートで母もろくに帰ってこないため、ベッドは一つだが予備の布団がある。俺はリビングにある安くて硬いソファの上で掛け布団をかけて寝るつもりだった。


「そんな・・・悪いよ。今日助けてもらったんだし」


 彼女は申し訳なさそうにいう。


「いいよ。それに疲れてるだろ? 怪我人を硬いソファで寝させられないから」


 だが、俺はそこまでソファに寝ることを苦にしていないというか、母がいたときはずっとソファで寝ていたのでもう慣れている。それに今日成瀬さんは物凄く疲れているはずであった。肉体的にも精神的にも。

 成瀬さんは少し嬉しそうな顔をしながら「ありがとう」と感謝を述べた。

 不思議にも彼女の頬が少し赤らむのを視認した。


 夜一つ屋根の下で男女の高校生が寝るといえど、俺と彼女の仲は親しいわけではない。決して男女の恋仲であればするだろうそういう行為はなかった。


 彼女に疲れているだろとは言ったものの、俺自身自分の行動に答えが出たわけではない。感情を失った、筈だった。それが俺をあの悪夢から逃げさせてくれた、救ってくれたのに。


 俺はどうなりたいのか。


 自分ではわからなく、答えを求めることから、逃げて俺は寝た。

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