30

 影が長く伸びる時間帯。俺はおそらく数分前に成瀬さんが通ったであろう道を進んでいた。


 初めてだろうか。剛にこんな形で頭を下げられたのは。正直、良い心地のするものではなかった。


 剛が俺の前で頭を下げた。

 親友、それが双方向の理解であるか否か俺には分からない。彼の周りには人がいて、感情が渦巻いている。俺とは真逆に。それでも彼が俺にとっての最も親しい友人であることに間違いはない。それがたとえ消去法だとしても、だ

 そんな彼が俺に頭を下げて頼みごとをするのは嬉しいはずなのに。

 剛の郡に対する感情に全く気づいてなかった自分に感情の有無を問いてしまう。自分は感情を知らないから彼の心に全く気付くことがなかったのだと。


彼が「やっぱり」と言っている手前どこかでは知られていた話だったのだと思う。だが、俺が主観なこの世界ではそれは紛れもなく未知の事実だった。

 あの過去が、そしてその過去が作った心を閉ざした年月がいつまでも自分を縛り続ける。ただそれを感じてしまった。


―少しでもいいから手伝ってくれっ

 そう言われた。

 彼はそう叫んで、必死になってまで俺に頭を下げた。彼には立派な感情がある。今はそれが羨ましい。そんな彼の願いを俺は無下にはできなかった。

 感情がない俺に手伝いなんかできるはずがないのに。


 いや、そうだからかもしれない。


 建物と建物の間を落ちかけの陽の光が一直線に通って俺の顔を照らす。一瞬の眩しさに気が引かれ顔をあげると気がつけばもう駅に着いている。

 こんな悶々としているだけ、俺は感情を抱いてもいいのだろうか。

 剛を手伝えば感情を少しは理解することもできるかもしれない。

彼が郡に対して抱いてる感情を知ってみたい。俺が成瀬さんをどう思っているのかも。


 俺は……感情を知りたい。



 *

「ただいま」

 掌に鉄の冷たい感触を感じながら俺はドアを開けた。もう既に誰かが家にいる玄関の鍵は空いていた。鍵を使わずに玄関を開ける、なんていつぶりになるだろうか。


「おかえりー 克人君」

 玄関からリビングまでは短い廊下で繋がっている。成瀬さんはリビングの入り口と言える扉から顔を出して俺を迎えた。既に部屋着に着替えていて、その上にはエプロンを着けている。


「今からご飯作ろうと思って」

 時刻は既に6時半を過ぎている。落ちかけていた陽も沈みきっていた。

 彼女はそれだけ言い残してキッチンに戻っていく。そんな彼女を見て俺は自室へ行き着替えた。洗濯したばかりのシャツのひんやりとした感触と洗剤の匂いがどこか心地よい。少し疲れていたからか、そんなものにも微かな癒しを感じた。


「あ、あのさっアレルギーとかある?」

 リビングに入ると、成瀬さんはこちらを向いて質問してきた。

 アレルギーか。当然と言っては何だが、検査は受けたことがない。自分がなににアレルギーがあるかは分からないし、血液型すら分からない。だが、特に何かを食べて体調不良を起こしたことはない。強いて言えばホコリが苦手なくらいだ。

「特にはない……かな」

「そう……」

 俺が答えると、彼女は少し俯きながら答える。


「どうしたの?」

 その挙動に不信感を抱くことはないが、どこか可笑しく感じたので俺は聞くことにした。

「いやっ、そのエプロン姿とか……少し恥ずかしくて。……なんか新婚みたいじゃん?」

 成瀬さんがさらに顔を赤くしながらそう答える姿にまたどこか息の苦しさを感じてしまう。でもそれが心地いい。

「そ、そう……」

「はいっ、もうこの話は終わりっ!」

 「何で恥ずかしがってるの私ぃ……」と成瀬さんは呟きながら料理に戻った。


「その、体はもう大丈夫?料理なんかさせて悪いんだけど……」

 昨日、学校から帰ってからすぐに意識を失ってしまっている。それを考えればやはり彼女がキッチンに立っているのは心配だった。彼女が好意でやっているというのを知っているからその好意を邪魔したくはなかったのだが、エプロンの件から話を変えようと質問した。

「うん。今日は結構体の調子が良くなってね。まだ痛いことには痛いけど、少しは我慢できるから」

 成瀬さんは首を傾げて「えへへー」と笑う。それで安心できる訳じゃない。だが、彼女の体が少しでもいい方向に行っているのを感じると、自分の過去にやっと価値を見出すことができてなんと言えばいいかは分からないが温かさを感じる。


 俺は自分に、自分の過去に安心しているのかもしれない。そんなことを思いながら成瀬さんの好意に預かろうと思い、料理ができるまでの少ない時間、ソファに座って読書を始めた。


 剛にも同じよう、助けになることができるだろうか。

 こんな俺でも彼の手助けになることがあるのだろうか。

 

 俺は感情を求めたい。

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