02

 今日は一段と体がいうことを効かない。夏休み中は学校という避難場所がなく父に際限なく蝕まれた。


 一体いつからだろうか。中学から高校に上がるに連れて、か。私は父に虐待を受け始めるようになった。いや、対象が自分にまで広がったのだ。


 私が小学校高学年になった頃には父と母は喧嘩をするのが日常だった。きっかけはよく知らない。何かあっては言い合っていた。だが男女の力の差というのは時に残酷だ。いつも母は結局父の前に屈するしかなかった。


 一旦、母を支配するとさらにそのストレスを発散させるための対象を、父は私にまで広げた。


 蹴る、殴るのは当たり前。反抗なんかでもしたら湯船や洗面台に水をはり、父親最高と言わせるまで私の顔を何度も何度も水に沈める。

 そして、最近では私の容姿と胸の発育にまで興味を示し、決して踏み越えてはならない一線を超えた。

 性的虐待をされて誰にそれを相談できようか。私の尊厳が絶対に守りたかったものが穢されもう前みたいに綺麗な私になることはできないのだ。絶望とはこのことを言うのだろうか。生きているのが苦痛だ。消えたい。

 

 歩くのが辛い、立っていることでさえ辛い。

 いつもより動かない体を必死に動かし学校までたどり着いた。


「おはよう。楓」


 奈々子が私に話しかけてくる。彼女は私の心を支えてくれる唯一無二の親友だ。当然私が受けている境遇については知らないが学校に行くのもしたくない私が無理して学校に来る唯一の理由。


「おはよう。奈々子。夏休みは何したの?」

 晴れやかな表情を作って私は彼女に質問した。

 二学期始まりの定番といえば夏休みトークだろう。いつも通り話を振る。


「うーん。何したっけなぁ えっと・・・」

 うっ。彼女が回答を思案していると急に体が悲鳴を上げた。姿勢を維持するだけで精一杯な痛みに襲われる。


「あ、ごめんちょっとトイレ」


 教室はクーラーが効きまだ夏の暑さが残るこの時期だが室内は十分に冷たかった。それなのに額に汗が走る。もう体を動かしたくないのに懸命に動かす。

 倒れるところだけは奈々子に見せたくない。

 学年の教室をすぎ、人気のないところに座る。この体の悲鳴が収まるまで。

 数分の間、私はただ俯いて時間を費やした。

 人気がないところに座っていると少し気持ちが落ち着いて体が軽くなったから教室に戻ろうと腰をあげた。だが軽くなったのは落ち着いた気持ちだけで体は絶えず悲鳴を上げている。


 もう、ダメ・・・


 暗闇の中、意識が覚醒した。ここはどこだろうか。何も見えない。何も見えないことに不安を感じ体に力を入れると目蓋が眼球に覆いかぶさっていることを認識した。

 目蓋をあげる。私の視界に写っていたのは教室ではなく白い天井だった。

 背中には柔らかい感触。どうやら私はベッドに横になっているらしい。

 誰がここまで運んでくれたのだろうか。私は自分の痣を見られたのではないかという心配に襲われた。もし見られていたらどうしようかという不安に心を掻き立てられた。

 と、脳が覚醒し思考し始めると、隣にいるのが奈々子であることに気付く。


「奈々子・・・私どうしたの?」


「・・・あ。起きた? もう急に倒れたっていうから心配したんだよ? 貧血?」


 どうやらその様子からは私の痣が気付かれてないように察せた。あんな痣、見たらすぐ質問し、心配するだろう。


「・・・うん。多分。ありがと運んでくれて」


 隣に奈々子がいる現状から私を運んだのは奈々子と勝手に推測した。


「ん?いや違うよ運んだのは。違うクラスの男の子だよ?」


 えっ・・・そうなの?心の中で素直に驚く。

 当然ここは礼を言いに行くのが筋であり、本心だ。


「そっか・・・後で礼をしに行きたいんだけど顔って覚えてる?」

「うーん、私放課後用事があるんだよなぁ。でも、どの人かだけ教えるなら時間あるかもしんない。分かった。ホームルーム終わったらすぐに下駄箱のところ行こうか」


「ごめんね。迷惑かけちゃって。ありがと」


 奈々子は「大丈夫」と頭を横に振ってくれる。

 もう私自身の傷がバレたというのは私の思考の外にあった。


 放課後、奈々子と約束通り下駄箱で待ち伏せをした。ここは誰であろうと帰る時には通るところだ。今日は始業式で部活もない。つまりここが私が顔の知らない彼と一番遭遇する可能性が高い場所だ。何だか不用意に緊張してしまう。


 予想通り、彼は下駄箱に来た。と奈々子が言う。容姿は一見普通だが、もう少し髪の毛とかの見た目を整えれば人気が出そうな顔。ただ、見た目はただの普通な男子高校生。背も女子の私より少し高いくらいで男子高校生の平均なのだろう。何故か私は彼の顔を見ると心がギュっと絞められる感じがした。私は何か感じてしまった彼の底知れない哀しさを彼の眼から感じてしまった。

 洗面台で鏡に写る自分のようだった。

 だが、それは気のせいだと思い、とにかくまず礼をすることが最優先事項だと思い出す。


「待って」


 いささか高圧的な態度と感じてはないだろうか。少し心配になったのだが、彼は気づいていない。本当にこの人なのだろうか。


「ねぇ、この人であってるの?」

 中々反応がないので私は奈々子に質問した。だが、答えは「yes」だった。奈々子は私に代わり彼の肩を捕まえる。彼はようやく気づき、こちらに振り向いた。


「ごめん、私ちょっと用事あるから」

 奈々子は自分の役割は終えたと退陣していく。退き際の彼女の悪戯そうな表情に何か他意を感じたのは気のせいだったのだろうか。


「そ、その、先ほどはありがとうございました」


 しかし、彼に対してはしっかり感謝を述べるべきなので私は素直に礼を述べた。


「そうですか・・・別に当然のことをしただけなので礼なんて大丈夫なんですが、まぁ、じゃあ・・・どういたしまして」


 彼は素っ気なく答える。だが、私はちゃんと礼を言えたことに満足し少し口角が上がった。


「私、成瀬楓っていうの。あなたの名前は?」


 この学校にいる限りいつかまた話す機会があるかも知れない。私は自分の名前を彼に教えた。


「有馬克人です」


「有馬君、今日はありがとう」


 有馬君・・・ね。不意に私はどこかカッコいい名字だと思ってしまった。そもそも私を保健室に運んでくれたということだけでどこか心の中でカッコいいと思っているのかも知れない。


「成瀬さん。体は大丈夫?」


 私を保健室に運んでくれた挙句、心配までしてくれた。ちょっとアリかも・・・なんて乙女心が私の中で働いた。

 だが、私にとってそれはあまり心地の良い質問ではなかった。なんせ制服に隠れているこの痣を見たら彼だって卒倒するだろう。

 私の体は大丈夫なんかではない。穢され、痛ぶられ、壊されているのだから。


「え、えぇもう大丈夫。元気になったわ」


 だが、そんなこと彼には関係ない話だった。彼にとって私は急に倒れたので保健室に運んだ女子生徒なのだから。

「いや、そうじゃなくてあざ・・・」

 瞬間。私は背筋が凍る。見たのかっ。見られたのか・・・

 その動揺が全身を駆け巡る。

 私はどうすればいいのか分からなくなった。だがこの場でこの話をしたくない。かなり人が出て行ったとはいえ、この会話を聞かれたくない。その一心で彼のシャツを引っ張り、空き教室へ連れ込んだ。


「先に言っておくが誰にもこのことは話してないし、話すつもりはない」


 空き教室に入るや否や飛んできたその言葉に私は安堵を覚えた。だが、それだけでは動揺は消せない。


「誰にもバレたくないからわざわざ教室でたんだろ?」


 そして私の心情まで読み取られた。この事実は私に驚愕と不安を植え付けた。もしかしたら奈々子も気付いてしまっているのではないかと。


「虐待か・・・」


 彼は答えを導き出した。何故かそれを知っているように。

 そして私も答えを出した。もう全てを見せようと。私はyシャツのボタンを一つずつ外し、脱いだ。

 同級生に下着姿を見せるなんて初めてだったが、もうこの手の羞恥心は薄くなっている自分に気づいた。そしてそれが私の穢された証拠であることにも。

 私も見かけとボディラインだけを見れば平均的に見て良い方だとは思う。だが彼は何も動揺しなかった。だが私の体の傷にも卒倒しなかった。


「・・・何も動揺しないのね。まぁ良いけど・・・ これが、私の受けたものよ。笑う?」


 初めて他人に見せた。誰にも見せたくなかった。見せれなかった傷。なのに・・・彼に見せてしまっている。

 さぁ・・・笑うなら笑ってよ。惨めな私をっ。

「いや・・・笑えないさ」

 初めて私の傷を家族以外に晒し、不安だったが帰ってきた返答は私を気遣ってくれるものだった。

「大変だったんだな」

 同情してくれている。その反応は素直にありがたいものだった。だが、同時に私はその返答に不快感を覚えてしまった。というより空き教室に入ってから、何かを見透かすような彼の視線にどこか不安と苛立ちを覚えてしまっていた。


 「―ッ あなたに大変だったんだなって、何がわかるっていうのっ!」


 私は叫んだ。


 私は笑われると思っていた。この傷を。でも彼は笑いもしなかった。なのに私は彼に叫んでしまった。なんて非道なやつだろうか私は。でも彼は笑わなかったのと同時に私を包んでもくれなかった。傷ついている私を見て優しくもしてくれなかった。


 それがいかに自分勝手な要求か私はわかっている。でもそれでも今は優しく声を掛けられたかった。


「・・・分かるはずがないだろ。俺と君はさっきまで名前も知らない他人同士だったんだ」


 私は当然のように事実を突きつけられる。


「そうか、そうね・・・ ごめんなさい」


「いや、良い。そんな痣があって精神的に限界がこない方が異常だ」


 そして彼はまた当然のように事実を突きつける。


「今日はありがと」


 私はどんな顔をしていただろうか。おそらく私は彼に何かを期待していた。私の痣を見たのに誰にも言わないと約束してくれた彼に何かを感じていた。いや、それ以前に彼の根っこにある悲しい何かを感じもしかしたら・・・と期待していたのかも知れない。

 あぁ、また今日も私は家に帰るのか。私は今日何をされるのだろうか。彼にはバレてしまったが、誰にも言えない。誰にも打ち明けれない。

 誰かに助けを求めるのがどれだけ簡単なのだろうか。でも怖いのだ。漠然と。心臓を掴まれもうあの父親から引き剥がせない自分がいる。

 誰か・・・助けて、私を。

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