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 時間はこの広い世界の中でちっぽけな人一人の存在にまつわるイベントなんかには無頓着で、ただ刻々と過ぎていく。だから人は気づけば積み重なれている時間を、過去を時折振り返り、「もうこんなにも経った」のかと思うのだ。


「で、俺は具体的に何をすればいいんだ?」


 廊下の壁に剛と二人並んで背中を預けて話を聞いていた。

 文化祭までもう3日というところで全く進展のなかった剛の告白を手伝う件についてだ。決定事項となっているのは文化祭のどこかで告白するという一点のみだった。


「うーん、克人には郡を連れてきて欲しい……文化祭人目多いから、屋上あたりの人気の少なそうなところで告白しようかなって」

 さしもの剛でも告白というイベントに対してはどこか弱気な部分があるようだ。

「わかった。じゃあ、いつのタイミングで連れて行けばいいか?」

 剛の方向に頭を向けてそう聞いた。

「郡は郡で委員会の仕事大変そうだからなぁ……もしかしたら文化祭終わってからかもしれないかぁ」

 剛は難しい顔をしながら腕を組み、さも悩んでいる雰囲気を出す。

 郡が今文化祭の準備で忙しいことはこの告白にあたって共有されている事項の一つであり、最重要事項の一つだった。

 俺は「わかった」とだけ伝えて、脚にかかる体重を廊下の壁から取り戻す。その動作と同時に予鈴が鳴ったので剛と共に教室へ向かった。


 授業、授業、委員会と学校での仕事を終わらせていき、俺は校舎を出た。

 成瀬さんと同居してから今に至るまで、一人で帰るのはこれで4 、5回目となるだろうか。今俺は一人帰路に立っている。イヤホンを耳に着け、スマートフォンから音楽を流す。そうやって感覚を一つ世界から離すことで少しずつ世界を遮断していった。

 周りに幾つもの同じ制服を着た集団を見ながら俺は一人で歩みを進めていった。


 いや、独りなのか。


 彼女との、成瀬さんとの登下校の時間。俺は少なからず楽しんでいた。人は一度手にした喜びを、楽しさを中々手放せない。

 だから俺は今「独り」を感じていた。

 電車の中、ドアのガラスに僅かに反射され見えた自分の顔はどこか寂しく、わらっているように見えた。だがそれが寂しさを感じられている自分に笑ったものなのか、寂しさを感じていた自分を自嘲して嗤ったものなのかもう知る術はない。


 今日の成瀬さんの帰りは遅めで、どうやら委員長に喫茶店へと誘われたらしい。3日ぶりだろうか。成瀬さんも委員長も文化祭の準備でさらにこれから忙しくなる。文化祭が終わるまではこれが最後となるだろう。

 学生鞄の中から出した課題を前にして密かに襲ってくる眠気を回避しようとインスタントコーヒーを淹れる。酸味が強く目蓋を強く閉じる。苦いと上唇と下唇の付け根を真横に「いーっ」と伸ばしてしまうが、酸味が強いと口ではなく目の周りの筋肉が反応する。

 思ったより酸味が強かったコーヒーに少々顔を引きつらせると目元の筋肉に痛みを感じる。まるで笑うことに慣れていないようで、笑みを浮かべられない自分に嗤ってしまう。


 最近はたまに頬や、目元の筋肉に痛みを感じていた。理由はわかっている。

 大笑いしたことがなくても、彼女によってもたらされた自分の微笑みは長年使わずにいた筋肉を痛めさせるには十分な負荷だった。

 精一杯自分で笑えるような人間だったら、今彼女は委員長の元ではなくしっかり自分の隣にいてくれていたのだろうか。笑わなかった分知らない感情を自分が知っていれば、彼女との関係を傷が前提である関係から少しは前進させることができたのだろうか。

 たらればを重ねる度にまだ自分が過去に縛り付けられているのを感じる。見えない鎖が全身に巻きついているように思える。

 

 鎖が巻きついていると思うと不意に体が重く感じるようになった。熱いコーヒーを片手に椅子に座った俺はそんな重たい腕を動かしながら自室の机にノートを広げ筆記用具を指に挟む。

 成瀬さんが家に戻っても意識はノートの中にあり、後ろから声を掛けられるまで存在に気付かなかった。


 その姿を視認してまた思う。人と一緒にいたいという欲も、頬の筋肉痛も成瀬さんから貰ったものだ。なのに、自分は何かを返せているのかと。ただの偽善から始まり彼女を彼女の父親から救ってただ居場所を与えた。言葉にするとなんとも素晴らしいことに聞こえてもたったそれだけなのだ。彼女に深く残っている傷を俺が癒すことができたか? いやできていない。


 だからもし委員長に成瀬さんの心の傷を癒す可能性あるというなら自分はしっかり邪魔者に甘んじようと。そう思う。

 こんなことしかできないのだから。彼女の感情を理解してあげることも俺にはできない。


 先ほど入れたコーヒーが僅かに残っているのを確認し、口に含むと冷めたコーヒーはやはり酸味が強かった。

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