27
スーパーは思いの外肌寒かった。冷蔵庫がいくつもあるからと思って薄手の上着を一枚羽織ったが、それだけでは足りなかったようだ。
成瀬さんとの食事用に野菜やら調味料やらを買ったが、成瀬さんの好みを聞いておけばよかったな……彼女の嗜好がわからなかったので、結局数うちゃ当たると思ってたくさん買ってしまった。
これから長い間は2人暮らしとなるだろうし、バイトを増やそうかな。
スーパーに行って戻るまではほんの30分ちょいしか掛からなかった。自転車をアパートの駐輪場に立てて鍵を抜く。自転車のカゴには買った物を包んだレジ袋が乗せてある。たくさん買ったからかカゴの穴からプラスチックパックが出ていた。
成瀬さんはまだ寝ているのかな。
そんなはかない疑問を抱えながらドアのぶに手を掛ける。行きに閉めたことをわかっているが、クセでついつい閉まっているか確認してしまうのだ。変なクセかなと自覚はして―
あれっ。ドアが開いている。
行きには用心のために閉めたはずのドアの鍵が開いた。成瀬さんが俺が入れるように開けたのだろうか。そんな疑問、いや嫌な予感を押し除ける希望だったのかもしれない。そんな物を胸に家に入る。
リビング、俺の部屋、洗面台、風呂、トイレ。どこにも彼女の姿は見当たらなかった。
朝ほどではないが、背中、首筋、額に汗が滲む。
どこだどこだどこだどこだどこだっ。
買った物が入っている袋を落とし、携帯もソファーに投げ、夢中になって探した。
でも、いない。
「何でっ……」
いないんだ。
教科書も、服も彼女の荷物は置いてある。ただ抜け殻となっていた。なのに、電話もメールも何も残されていない。
急にソファーに投げ捨てた携帯がなった。俺は願うようにそれを取ると携帯には「郡」と記されている。
「どうした、郡」
できるだけ呼吸が落ち着いてから俺は電話に出た。
『ね、ねぇ克人。今楓ちゃんが家にいるんだけ―』
「そこにいるのかっ。今から行く」
そう言って電話を切る。郡には申し訳なかったが内心物凄く焦っていた。
俺を救ってくれるはずの彼女がなぜどこかに行ってしまったのかと。俺のしたことは彼女にとって迷惑だったのかと。
「何でだよっ」
そう叫んでいずにはいられない。彼女が俺に見せた笑顔は嘘だったのか、俺と一緒にいるのがいやだったのか。嫌な方向へどんどんと想像が進む。あくまで想像なのに歯止めがかからない。
俺はまた裏切られてしまうのか……そんな疑問と焦りと居場所が分かった安心感を織り込んで俺は走る。
「はぁ、はぁ……はぁ、はぁ……ふぅ」
肩が上下に揺れている。いつぶりだろうかこんなに走ったのは。考えてみると俺は走ることからも逃げていたらしい。走るという衝動自体を。
走るってこんなに辛かったんだな。
「そんな急いで来なくたってちゃんと引き止めてたって」
呆れ顔をした郡に言われた。
走って郡の家まで行くと、郡が家の前で待っていてすぐに声をかけてきたのだ。
「成瀬さんは?」
「私の部屋にいるよ。あと、克人が来るの教えてないから」
「そうか」
何度も入り慣れた郡の家だが、入るのは久しぶりだった。ここ1年はきたことがなかった。郡のお母さんに挨拶を済ますと郡の部屋に向かった。
「楓ちゃんの事情聞いたから」
郡の部屋まであと一歩のところで郡は突然そう言った。
「でも、聞かれたくない話もあると思うし、家に早く連れて帰った方がいいと思う。もうそろそろお母さんとか弟とか帰ってくると思うし。それと変な誤解してごめん」
「いや、何も説明できなかったのは俺だ。俺も悪かった」
郡は郡で今日の昼の件を悪く思っているようだった。とはいえ、俺も何も郡に言わずに放っておいてしまった。たとえ言えないことだったとしても申し訳なさはある。
ドアを開けた。何で出て行ったのかと言えばいいのだろうか。なんて声をかければいいのかがわからない。
「……成瀬さん」
「えっ。か、克人君……。何でそんな汗だくで」
「……とりあえず、帰ろうか」
口元にまで出かかっている疑問を必死に抑える。
成瀬さんが郡の家になぜいるのか。そのことについて言及し始めて俺が言葉を抑える自信がない。だから俺は行動を促した。
「楓ちゃん。克人が本気で楓ちゃんのこと見放す訳ないでしょ?悪い夢を見てただけなんだって。家帰って克人にちゃんと話しな」
「うん……」
納得したのか、そうするしかなかったのか成瀬さんはただ俺の後をついてきた。何かを求めるように、何かにすがるように。そう感じたのは気のせいだろうか。
俺と成瀬さんはそのまま郡の家を出た。家に着くまではお互いに沈黙していた。
とりあえず、帰ろうと言ったのは単なる逃げだった。なんて声をかければいいのかわからない。その時間稼ぎ。
無情にもすぐに俺の家に到着した。
「なんで出ていっちゃったの?」
家につきお互い隣り合わせにソファに座った。郡の家を出た時から続く沈黙を突き破ったのは俺の質問だった。なんて声をかければいいのかわからない。だからか物凄くまっすぐで単純な質問となってしまったのだ。
ここで言葉を取り繕ってもなんら解決とはならない。それが分かっていた。
俺は必死に平静を装う。なんで成瀬さんがいなくなったのか言葉にしても、言動にしても何も考えていなかったら抑えられなかったから。
「……克人君」
「っと急にどうしたんだよ」
成瀬さんは無言のまま俺にすがりついてきた。
もう何度も感じた彼女の鼓動が、熱が、温もりが微かな布という壁を通り越して伝わってくる。
「私の誤解だって分かってる。でもっ、書き置きくらい残してよぉっ」
俺にすがりついて見えなかった顔を成瀬さんが上に向けた。その瞳には既に涙が溢れていた。
「……悪夢。見たんだ」
「えっ」
比喩でも言葉のあやでもなく言葉通り絶句する。
『悪夢』それが俺と彼女の中でどんな意味を持つのか、それは俺の傷であり、トラウマであり、抜け出せないもの。彼女がおふざけで悪夢なんてワードを使うことはない。
「……両親は私から離れていってっ、クラスのみんなも「レイプされたやつ」だのっ、「強姦されて助けを求めない痴女」だのってっ。どんどん影が離れていったのっ」
もう堪えることのできない涙が彼女の瞳から溢れていく。
語尾に力が加わってしまっているのは彼女が嗚咽しながら伝えたから。
人ごとであり、人ごとでない彼女の『悪夢』をどう受け止めれば良いのだろうか。
「それでもっ克人君の影だけっがっ側にいてくれたからっ。起きた時克人君いなくてっ勝手に勘違いしちゃってっ」
「そっかそれで……」
想像していたことより幸いで、不幸な事実。彼女が俺を裏切ったんじゃない。その事実に安堵しても結果的には安堵できない。
居場所か……
傷を見せ合い、傷を包みあい、傷を舐め合って、傷を癒し合う。
そんな俺たちの関係の前提にあるのは「傷」だ。それを再認識する。
歪で温かく、すがっていたい。でもそれだけだったらとても脆い関係。
「……怖いよっ。私もう誰にも見放されたくないっ」
泣いて、泣いて、泣いて、また泣いて。それでも泣き足りなくて。不安がって怯えて。
お互いに傷を見せ合って、お互いを求めてるって分かっているのにそれでもまだまだ不安で。
そんな関係以上になりたい。
彼女に求められて、彼女を求めたい。そこに前提はなくて理由もなくて。
そんな関係に。
だけど、それは俺の国語辞典ではわからない感情。彼女を思うと息苦しくなる。それだけが実態として存在する。
誰かの国語辞典を借りてそれがもし恋愛感情なのだとしたら、俺は認めるのだろうか。
いや、やっぱり言葉で表すのはやめておこう。この感情に型がある訳ではない。それに恋愛もまた前提だ。言語ですら前提だ。
この気持ちを言語の上で表しておく必要はない。
「……今日は隣で寝よっか」
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