第32話 ママのまま②



「おかえり、光くん」



「......ただいま」



 たった数日なのに、懐かしい響き。

 紺色のジャージに身を包んだ日ノ宮さんが、リビングにぽつんと立っていた。



「どうした、向こうでなにか悪いことが?」



「違うの、ただ......会いたくて」



 必死にすがるような目をして。

 俺はまた勘違いしそうになる。



「父さんなら、まだ会社に」



「聞いたんだよね、全部」



 なんのことか、聞くまでもなかった。

 朝も葵にその話をしたばかりだ。



「桐人さんが連絡くれて。わたしの身の上をもう話してしまったよって。勝手にしてごめんって謝られてね」



 謝るのはこっちなのに。

 そう言いながら、日ノ宮さんの視線がリビングの棚へ。幼い俺を抱えた父さんの写真が、花の模様のついた写真立てに飾ってある。


 母さん手作りの写真立てだ。


 しばらく眺めて、俺のほうに向き直る。



「学校に知られてから、しばらくクラスの子たちに冷たい態度を取られてたんだけど。今日、葵ちゃんがいっしょにご飯食べよって。大丈夫だよって言ってくれたの」



 そうか。

 葵は頼みをちゃんと聞いてくれたんだな。

 自分も仲間外れにされる可能性だってあるのに、それを承知で行動してくれた。



「光くんのおかげ、だよね」



「俺じゃない、やったのは葵だ」



「でも誤解を解いてくれた」



 話によると、非行少年との付き合いやいかがわしい施設の利用、援助交際まで疑われたそうだ。


 今までいっしょに飯を食っていたというのに、平気な顔して陰口を叩くとは。



「ありがとう、光くん。それから」



 すっと俯く日ノ宮さん。

 ポニーテールが垂れて横顔にかかる。



「言わなくてごめん」



「......」



「怒ってる?」



「怒ってはない、けど。最初はさすがに理解できなかった。短いとはいえ、いっしょに暮らしてたんだ。話す機会ならあっただろうに」



 日ノ宮さんはなにも返さない。言い訳のひとつでもあれば、黙って納得したのに。沈黙が、俺の中にたまっていたものを刺激する。



「ああ、俺は信用されてなかったって。頼りないと思われてたんだなって」



「違う、それは違うよ」



「なにが違うんだ?」



「だって、わたしはママだから」



 瞳に涙をためて。

 悲痛な声を発した日ノ宮さん。


 髪が顔にかかろうが、椅子にちょっとぶつかろうがお構いなしに。


 こんな日ノ宮さんを、初めて見た。



「また、ママかよ」



「約束したから」



「......父さんと?」



「うん。桐人さん......光くんのお父さんは店のお客さんだった。お仕事で飲みにくると、よく話しかけてくれて。最初は制服で働くわたしに驚いてたけど、次に来たときにはお手伝い用の服をくれて、次第に家族の話までするようになって」



 父さんのお節介は飲みの席でも、か。

 混じりっ気なしの善意は、夜の街で新鮮だったらしい。日ノ宮さんはすぐに父さんに懐いたという。



「もちろんお子さんのことは知ってた。桐人さんが胸元に忍ばせた少年の写真をよく見せてくれたから」



 それが、俺だったってわけね。

 どうりで、初対面で驚くわけだ。

 小さい子が出てくると思ったら、男子高校生、しかも隣の席の生徒が現れたんだから。



「桐人さんはね、家族を求めてた。自分じゃなくて、光くんに」



「俺?」



「幼い頃、お母さんを亡くした可愛い息子のためにママが欲しいんだって。どんな困難でもともに立ち向かって、ともに成長してくれる、絶対の味方」



 絶対の、味方。

 吸い寄せられるように日ノ宮さんを見つめる。


 あの日、日ノ宮さんが言ってた。

 ......なんだっけ。ああ、そうだ。


 家を出るときは見送りをして、そばにいないときは安全を願って、誰かに恋をしたときは全力で応援する、家族。


 それが父さんが求め、日ノ宮さんがなろうとした絶対の味方、ママだったんだ。



「自分からママになるって手を挙げたの。だから、光くんに弱いところなんて見せられない」


 ママは、息子の守護者じゃないと。

 体育服姿のママはそう言う。


 口を固く結んで、耐えて。

 でも、それは......



「それは違うよ、日ノ宮さん」



「違う、って、なにが?」



「どんな母親だってひとりの人間だ、弱い一面もある。それに俺はもう高校生だ、大人じゃないが子どもでもない。親と同じ、ひとりの人間になろうとしてるんだよ」



「ひとりの、人間」



「そう。もう、幼子のように守るだけじゃない。前を歩くんじゃなく、肩を並べて歩くんだ。弱くても、くじけてもいい。すべてを俺に教えて。悲しみも苦しみも、全部」



 手を引く親も、隣で歩く親も。

 日ノ宮さんは知らないだろう。

 だから、完璧に憧れる。


 でも、俺に必要なのはそんな母親じゃない。



「日ノ宮さん、言いたいことは?」



「......え?」



「あるでしょ、ここに来た理由」



 言っていいんだよ。そう促す。

 悲しみも苦しみも全部共有したい、と。


 すると、たがが外れたように。

 日ノ宮さんの目から大粒の涙が溢れだす。

 両拳を握って。絞り出すような声で。



「わたし......この家に、戻りたい」



 日ノ宮さんは思いを吐いた。


 俺は自然と日ノ宮さんに駆け寄った。

 そして、その細い肩を抱きしめた。


 日ノ宮さんは一瞬動揺を見せたが、すぐに俺の胸に顔を寄せた。


 柔らかな感触。

 とくん、とくんと少し早い鼓動が聞こえる。長い黒髪がさらりと頰に触れて。


 体温を全身に感じながら、俺はそっと口を開いた。



「言っとくけど、俺はママだとは認めないよ」



「......な、えっ」



「日ノ宮さんは家族だ。だけど、ママじゃない。同じクラスの友人で、隣の席の女の子。そして、普通の高校生なんだから」


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