第7話 母さんの味①
ぷち、ぷちと。
慣れた手つきで第2ボタンまで外して。
なにかに気がついたように顔を上げる。
「あ、ベスト着てたんだった」
お財布忘れてきちゃった、みたいな軽い調子。
日ノ宮さんはボタンから指を離すと、ベストの裾に腕を交差するようにして手をかけた。
「ちょ、ちょちょ、ちょっと待った」
その小さな手を掴み、俺は日ノ宮さんを止める。
「ど、うしたの、光くん?」
「どうした、じゃないだろ。なんでいきなりそんな、しかも服脱ぐとか」
「だって、授業中に胸揉みたいって」
「いや、揉みたい、揉みたいけど」
「じゃあ、脱いでもいいんじゃ」
「駄目だ!」
思わず声が大きくなる。どうしても声を荒げずにはいられなかった。突然怒鳴られた日ノ宮さんは、俺を見つめ、きょとんとしていた。
しかし、手のひらの中の手はまだ動いて、服を押しあげよう、押しあげようとしている。俺はもう一度力を込め、日ノ宮さんの目を見た。
校舎脇に樹木等なく、遮るものもない化学室は真昼の強い日差しに照らされ、机すら眩しい。日ノ宮さんのまあるい瞳は光を反射して、細く揺れていた。
「だって、日ノ宮さん。顔、真っ赤」
「......っ」
「俺に質問したときから、ずっと」
気づいていたかと訊ねる。
途端に日ノ宮さんの手から力が抜けた。
耳まで赤くしてボタンを外す日ノ宮さんはそれはそれでそそられたけど、緊張と羞恥に震える胸を見ても嬉しくはない。
「どうして、胸を触っていいなんて言ったの?」
「それは......」
「言いづらかったら、いいけど」
「......に、なりたかったから」
「え?」
「ママに、なりたかったの。光くんの」
予想外の回答だ。
俺は口をあんぐりとさせた。
玄関先での挨拶以来、日ノ宮さんはその言葉を口にしなかった。一度も言及しなかったから。
結局徹夜でそのまま勤務になった父さんにもまだ事情を聞けていないのだ。
「ママ、って日ノ宮さんと俺、同い年だよね」
「そうだけど」
「なのにママになりたいって、俺にはよく分かんないんだけど」
「そうだよね。急にそう言われても分からないよね。わたしだって、正直受け入れられない部分もある。でも──」
日ノ宮さんの言葉が止まる。
その隙間に入りこむよう、廊下の開いた窓から温かい風が流れてくる。ふわりと揺れる日ノ宮さんのポニーテール。
「──桐人さんと約束したから」
「父さん、と」
「そう。だから、なるの、ママに」
強い、しかし優しげな目でこちらを見ている。日ノ宮さんは俺の手の中で拳をきゅっと握りしめた。
いったい、父さんとなにを約束したのか。
ほんとうに父さんと関係があるのか。
今なら、聞ける気がした。
「あのさ──」
「だからさあ、国語の五条がさ」
「いや、六条ね。いつまで間違えんの」
がはははは。きゃはははは。
およそ女子高生とは思えない下卑た笑い。
スカートの短い生徒がふたり、第2化学室の前を通り過ぎていく。
俺ははっとした。
誰もいない教室。
手を繋いだ男女。
誤解を招く状況だ。
日ノ宮さんも同じことを考えたようで、視線を廊下へ移すと、両の手を素早く引っこめた。
温もりが瞬く間に消えていく。
なんだかもったいない気もした。
日ノ宮さんの手、柔らかかったな。
「......ご飯、食べよっか」
「あ、ああ、うん」
もうなにかを聞ける状況ではなかった。
促されるまま、放置していた弁当に手をつける。いろいろありすぎて、すっかり忘れていた。
すっかり干からびた卵焼き。
冷えても美味しいように甘く味つけしてあるから問題ないけど。
このレシピ、教えてもらっておいてよかった──
「そうだ、日ノ宮さん」
「......どうしたの、光くん」
「あるよ、ママになる方法」
日ノ宮さんは箸を片手にちょこんと首を傾けた。
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