第8話 母さんの味②
「どう、かな」
「大きいね、かなり。しかも柔らかそう」
「......嫌じゃない?」
「まさか。これで喜ばない男はいないよ」
日ノ宮さんはその言葉に頰を赤らめる。
すっと目を細めて。
2つの塊をさらに寄せ上げて──
「でも、桐人さん。胃もたれしちゃいそう」
「ああ、そっか。だったら分けちゃえば。日ノ宮さんも半分でいいんでしょ」
「そうだね。そうしよ」
脂の多いほうをもらおうかなあ、と日ノ宮さんはちょっぴり上機嫌。分厚いステーキ肉のパックを前に、舌舐めずりをしている。
俺も久々のごちそうとあって、さっきからお腹が鳴りっぱなしだ。
ママになる方法、として俺が提案したのは料理だった。
俺の母さんはそれはもう料理上手で、煮物や揚げ物などの和食からパスタやピッツァといったイタリア料理までなんでも作ることができた。
だから亡くして十数年経っても、キッチンに立つ母親の記憶が色濃く残っている。
日ノ宮さんがもし母親になりたいというなら、それなりの気持ちを見せてもらいたい。そう考えたのだ。
......あと、単純に日ノ宮さんの手料理が食べたかったというのもある。
買ってきた食材を並べて、日ノ宮さんは腕まくりをする。準備万端、気合十分。追い出されるようにしてキッチンを出ると、後ろから「頑張るぞ!」という声が聞こえた。
父さんにも事前に連絡はとって予定を入れないよう念を押してあるし、会社のトラブルも解決したみたいだから今夜は初めて3人で食卓を囲むことになる。
日ノ宮さんが夕飯をつくるって言ったら、食費を上乗せしてもいいと許可も出た。
それであのステーキ肉だ。
日ノ宮さん、肉が好物らしい。
なるほど、納得のボディ。
どこに栄養がいったのか、一目でわかる。
「ベストは脱ごうかな」
リビングの椅子に腰かけつつ様子を伺うと、日ノ宮さんは紺色のベストを脱ぎ、シャツ姿になるところだった。その上からエプロンを身につける。
彼女の持ち物だろうか。
ベージュのシンプルなデザインのものだが、左胸に枝垂れた紫の花の刺繍が入っている。日ノ宮さんの少し凛とした美しさによく合っていた。
「んんっ、ちょっとキツい、かも?」
......それ、たぶんその大きな塊のせい、とも言えず。材料片手に右往左往する彼女を時々手助けしながら、なんとか夕飯は完成した。
「わあ、こんな豪華な食事は久しぶりだ」
帰宅した父さんはリビングに入って、出来上がった品々を見るなり、感嘆した。
メインのステーキにサラダやスープ、デザートのムースに至るまでボリュームはもちろん、盛りつけも細部にまでこだわっていたからである。
実はそのほとんどを俺が作ったのだが、まあこれは言わなくてもいいことだろう。
「さすが、日ノ宮さんだ」
美味しい、美味しいと繰り返しながら、父さんはステーキを口に運んでいた。日ノ宮さんはちょっぴり焦げた半分のステーキをひとくち、嬉しそうに微笑んだ。
「そろそろ、話を聞きたいんだけど」
デザートのムースも半分片づいた頃、俺はそう切り出した。
父さんが遅めに帰ってきてくれたおかげで、苺のムースはしっかり固まっていた。甘酸っぱい風味をしっかり生かしきれていて、母さんもこれなら満足するだろう出来だった。
「別に日ノ宮さんが嫌なわけじゃない。ただ、正直信じられないんだよ。父さんが日ノ宮さんと、とか。だから本当のことを話してほしい」
「......光」
父さんはスプーンを皿に置いて、両膝に手を置く。口元にはいつもの能天気な笑みを浮かんでいるが、瞳は真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「日ノ宮さんとは男女の仲にあるわけじゃない」
「じゃあ......」
「しかし、真剣なんだ」
「......」
「出会いはよくなかったかもしれないが、真剣に、付き合っていきたいと思っている。そして、いずれは家族にと考えている」
横に目を向ける父さん。
視線の先で日ノ宮さんがぐっと唇を噛んだ。
「わたしも同じ想い、だよ」
ぐらり、と目の前が揺れた。
父親に高校生との仲を告白され、嘆願される。それはもう昨日の昼に経験したことだ。
でも、もう知ってしまった。
これが冗談じゃない、と。
それからは静かな食事だった。ただ黙々と甘いなにかを胃に流しこみ、お茶を一杯飲むと、父さんは風呂に入るため、リビングを出た。
皿洗いは父さんの担当なので、残された俺と日ノ宮さんはすることもなく、ダイニングテーブルでしばし茶をすする。
そのうち、日ノ宮さんがなにかを思い出したようにキッチンに向かった。どたばたと音をさせると、なにかを抱えて戻ってくる。
「光くん、まだお腹に余裕ある?」
「......少しなら」
言うが早いか、日ノ宮さんはホーロー製の保存容器を差し出す。左手にはスプーンも持っている。
「材料が傷みかけだったから、つくっちゃったの、ポテトサラダ」
ああ、そういえば。
昨日使い切ろうとして断念していたんだった。
じゃがいも、少し古かったんだっけ。
「ありがとう」
キッチンの隅でなにかやってると思ってたら、これをつくっていたのか。
「夕飯、光くんにほとんどつくってもらっちゃったから、これだけは自分でつくりたくて」
申し訳なさそうに、容器の蓋を開けて。日ノ宮さんがスプーンを差し出す。にんじんときゅうりの入った色鮮やかなポテトサラダ。
ひとくちすくって、口に入れて。
その瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
「ひ、光くん?」
日ノ宮さんが動揺する声が聞こえる。かがんで俺の顔を覗きこんで、美味しくなかったの、とか、不味かったなら吐き出して、とかなんとか言っている。
違う。
不味いわけじゃない。
むしろ美味しい。
誰かに自慢したいくらい。
懐に隠して、ちょっとずつ食べたいくらい。
「認めるよ、日ノ宮さん」
「......え?」
「認める。とりあえず、同居人として」
嬉しいのか、悲しいのか、複雑な顔をして。日ノ宮さんは保存容器をぎゅっと抱え直す。
別に日ノ宮さんが嫌いでも、父さんの幸せを願ってないわけでもない。年齢とか立場とかそういうのを気にしてないこともないけど、だからって頭ごなしに否定するつもりもない。
ただ、このポテトサラダは──
口の中にふわっと味噌の香り。
味わい慣れた合わせ味噌。
──このポテトサラダは、どうしようもなく母さんの味がした。
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