幕間③ ママのハチマキ



 牛肉コロッケの夜。

 大事そうに最後のひとくちを頬張って、日ノ宮さんは箸を置く。



「ふう、まんぷくまんぷく」



「よく食べたな、コロッケを4つも」



「す、すっごく美味しかったから、つい」



 えへへ、とはにかむ日ノ宮さん。

 その口元にはちょっぴりソースがついている。


 美味しかった、ごちそうさま、という言葉もいいが、自分の料理を幸せそうに食べるこの笑顔が今はなによりも嬉しかった。



「そうだ、光くん」



「ん?」



「ちょっとお願いがあるんだけど」



 そう言って、日ノ宮さんは両手を合わせた。

 瞳を潤ませ、ここぞとばかりの上目遣い。

 なんだか、嫌な予感がした。





「......光くん、きつくない?」



「少し、きつい」



「でも、動くから強く縛らないと」



「ほどほどに、な」



「うん......いくよ?」



「う、痛っ」



 容赦なく食いこむ布。

 髪も乱れ、思わず顔を歪める。



「ごめんっ、今外す!」



 俺の表情を見た日ノ宮さんは慌てて、縛りを解こうとする。しかし、結び目をきつくしてしまったようで。背後でもじもじと奮闘する様子が感じ取れた。


 日ノ宮さんの願いとは、体育祭の準備の手伝いだった。


 体育祭では、生徒がそれぞれ団色のハチマキを締める。我が校には、団の有志がそのハチマキに刺繍をするという慣習があるのだ。


 日ノ宮さんは去年に引き続き、ハチマキの刺繍係に手を挙げたらしい。それはいい。それはいいとしても、だな。



「あと、もうちょっと」



 後頭部で日ノ宮さんの指が動く。

 俺ももうちょっとで我慢できなくなりそう。


 さっきから、当たっているのだ。

 日ノ宮さんのたっぷり柔らかな胸が。



「とれたあ。やっととれたよ、光くん」



「お、おお、よかった」



 よかった。本当によかった。

 別にもう少し触れていたかったなんて思ってないよ、うん。



「刺繍の位置はこれで、大丈夫っと」



 頭からハチマキを外して、頭囲に合わせて印を入れる。そして、おおよその模様を描いていく。ずいぶんと慣れた手つきだ。


 ちくちく、と端を縫っていく日ノ宮さん。

 団色よりも少し濃い色の糸を、丁寧に丁寧に。



「裁縫は、上手いんだな」



「むっ、家事はできるって言ったでしょ。これでも小さい頃から針を握ってきたんだよ。料理は......苦手だけどさ」



「別に、馬鹿にしてるわけじゃないよ。それに、週に1回は弁当作ってくれるって言うんだから。日ノ宮さんは努力家だなって感心してるんだ」



 ほんとに、と付け加えると、日ノ宮さんは不機嫌そうな顔のまま、でもちょっぴり口元を緩めて。



「マ、ママは誤魔化されないから」



 ハチマキに視線を落とした。


 そういえば、体育祭にはジンクスがあったような。確か、好きな人にハチマキを渡せば結ばれるとかなんとか。


 日ノ宮さんのハチマキは、いったい誰のもとへいくのだろうか。



「日ノ宮さん」



「ん?」



 ──日ノ宮さんのハチマキが欲しい。


 なんて馬鹿げた考えが頭に浮かんで、俺はとっさに別のことを口にする。



「ついてるよ、ソース」



「え、うそ」



 口元を素早く拭う日ノ宮さん。

 しかし、ついている場所からは外れている。



「違う違う、ここだ......よ」



 手を伸ばして、拭って。

 瞬間、彼女の唇に指先が触れた。


 ぷにっと、柔らかくて温かい。

 女の子の唇。



「ごめん」



「ううん、ありがと」



 俺はぱっと手を離す。

 礼を言い、顔を背けた日ノ宮さんも、なにかを感じたらしく、赤くなった頬を手の甲で押さえる。



「そろそろ、風呂入ってくる」



「うん、いってらっしゃい」



 気まずくて、俺はリビングを飛び出した。背中を追いかける視線に気づいてはいたが、それに構っていられないほど激しく動揺していた。


 この感情がなんなのか。

 知っていた。

 知ってはいたけれど。


 今は知らないふりをしていたかった。


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