最終話 隣の席の日ノ宮さん=?②
階段を上がって教室へと向かう。
その道すがら、遊佐と藤也に会った。
遊佐は手首に、藤也は腕にハチマキを巻きつけて。揃ってグラウンドへ行くという。もうすぐ集合だから早くしろよと言われ、俺は軽く頷き返した。
教室に着くと、廊下側の窓から中を覗く。
日ノ宮さんは俺の席に立ち、机に触れていた。ほお、とため息をつくその様が絵に描いたように美しく、しばらく眺めていたかったが。
時間もない。
咳払いをして教室へと入った。
「光くん......おはよう」
ぱっと机から手を離す日ノ宮さん。
「おはよ」
「なにか忘れもの?」
「ああ、追加で紙花が必要なんだと」
「そっか」
日ノ宮さんはこちらをちらりとも見ない。
だがそれは、嫌悪とかそういうものではない。
その証拠に頬の高い部分がほんのり桃色に染まっている。昨日のことが思い出されるのだろう。
「昨日のこと、だけど」
「あ、あれは、その」
「父さんが戻ってきてほしいって」
「......へ?」
「再度学校に説明して、理解を得たらしい。正式に後見人になれるようこれから手続きをするって、父さんが言ってた。日ノ宮さんがそれでいいならって」
「う、そ。ほんとに?」
「ああ」
目を涙でいっぱいにして、日ノ宮さんは喜んだ。口元を覆っても、隠しきれないほどの笑み。
「だから、戻ってきてよ、日ノ宮さん」
ぴょんぴょんとポニーテールを揺らして。
日ノ宮さんは何度も頷いた。
「でも、ひとつ疑問が」
「疑問?」
「学校側は日ノ宮さんの、その、父さんへの好意を問題視してたはずなのに、どうして認めたのかなって」
「ああ、それは、正直この問題、学校には手に負えないものだったし、それに、昨日の放課後、わたしが先生に話したの。桐人さんがどれだけ真摯に向き合ってくれたか。それと......」
言いにくそうに目を逸らす日ノ宮さん。
そして、なぜか耳まで赤くなってきている。
「それと、桐人さんに電話で言われたの。会いたいのは、本当に僕かって」
「......それって」
「家を離れて、恋しかったのは、僕じゃないはずだって言われたの。もし会いたいなら、どこへだって走っていく。でもそうしなかったのは、きっと会いたい人に顔を合わせていたからだって」
日ノ宮さんは僕を好きじゃない。
僕に父性を見て、憧れを抱いただけだ、と。
「わたし、これまでお母さんを支えることしか考えてなかった。お母さんが逝ってしまっても、自分のことを考えることができなかった」
日ノ宮さんは俯き、両の手をぎゅっと握る。
歳の割に荒れた手だ。
きっと水仕事も手伝ってきたのだろう。
「だから、普通の高校生だって言われても、普通が分からない。わたしは家族もよく分からなかったの」
「......うん」
「でも、桐人さんと出会って、光くんと仲よくなって、家族の温かさを知った。誰かに会いたいって感情も。わたしが昨日走ったのは......光くんのためだった」
「俺の、ため?」
「会いたかったの、光くんに」
「それは、どういう」
「わたしもまだ分からない。でも、分かりたい、知りたいの。進路も友情も、それから恋も。普通の高校生が味わう普通のことを知りたい」
「日ノ宮さん......」
日ノ宮さんが俺の手から布を奪う。
そして、俺に後ろを向かせた。
「わたしが、締めてあげる」
頭に柔らかな感触。
後頭部で細い指が動く気配。
日ノ宮さんの刺繍入りハチマキ。後ろではきっと太陽の刺繍が揺れているのだろう。
......俺も本当のことを伝えよう。
自分の気持ちを伝えなければ。
「日ノ宮さん、葵とのことだけど」
「知ってるよ」
「え......うわっ」
突然後ろから抱きしめられる。
ふたつの膨らみが背中に押し当てられて。
「ひ、日ノ宮さん!?」
「ママが知らないとでも?」
「......え」
「女の子の情報網をなめないで」
「ええ......」
「いくらわたしのためでも、他の女の子に近寄ったりしたら、今度は許さないからね」
「は、はい」
信じられない圧に押されて。
俺は何度も首を縦に振った。
「それから......」
日ノ宮さんが頭を俺の背に擦りつける。尋常じゃなく熱くなる身体。それは日ノ宮さんも同じようで。
どくん、どくん。
互いの心臓が早鐘を打っていた。
グラウンドで集合の合図がかかる。
もうすぐ体育祭が始まるのだ。
俺の耳元で日ノ宮さんは、それはそれは甘い声でささやいた。
「わたしに、普通の恋を教えてね」
ママになろうとした彼女。
でも、今日からは違う。
今日からは普通の高校生。
──ただの隣の席の、女の子だ。
隣の席のママ=日ノ宮さん もあい @KobashiriMoai
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