No,10
日に日に疲れて行く彼を見て亜子は不安を覚えていた。
『温泉に行きたい』などと言っている柊人は、どこまでが本音なのか掴み切れない。ただ夕飯を終えると、ソファーで横になる時間が増えているのは間違いない。
「占領してごめんな」
床に座っている亜子にそう声をかけ、体を起こそうとする彼を制する。
「平気ですよ」
笑い亜子は夫を見る。
「ウチではわたしが使えるソファーとか無かったんで、これが本来のスタイルと言うか」
「ごめん。たまに出て来る君のそのマジトーンのネガティブ発言が怖いです」
両手を上げて降伏してみせる柊人に、亜子はクスクスと笑った。
あとはいつも通り映画などをテレビで見て過ごす。
彼は基本英語字幕だ。字幕が無くても平気なのだというが、字幕を出してくれるのが彼らしい優しさだと亜子も理解していた。
「ん?」
腹に乗せているスマホを手にした彼が操作し始める。
友人が多いらしく暇さえあればメールなどをしている人だ。亜子のスマホには柊人しか登録されていないが。
「しまった。そっちが来たか」
「はい?」
「あ~。仕方ない」
体を起こした柊人が亜子を見る。
「今週の金曜、夜にちょっと出るんで」
「あっ分かりました」
「もちろん君もね」
「……はい」
どうやら今回も逃げられないと理解し、亜子は素直に応じた。
金曜の夜。
夕飯を食べてから、途中まで見ていた映画を見終えて家を出た。
タクシーで移動すること30分。錆びれた商店街の裏路地を歩くこととなり、亜子は言いようの無い緊張感に襲われていた。
前を行く柊人がこんな場所に来るのが似合わない。
でも慣れた様子で歩き、時折前から歩いて来る革ジャン金髪ないかついお兄さんたちと軽い挨拶までする。
『なるようになれ』と開き直って、亜子はそっと彼の服の裾を掴んで後を歩く。
辿り着いたのは地下へと続く階段だった。
「ロックカフェ?」
「実質はパンクだけど、この近辺のハードロッカーな中高年が集まるいかれたお店だな」
「……」
『何故そんな店にと?』と喉まで出かけた言葉を飲み込み、彼の案内で階段を下りる。
重厚な扉を引いて開くと、大音量のギター音が響いて来た。
「演奏中だ。もう少しすれば静かになる」
相手が耳に口を寄せそう言って来る。亜子としてはその情報よりも体温を感じるほど柊人の顔が近くに来たことの方が大問題だった。
「こっちだ」
手を引かれ店内に入ると、小さなステージでバンドらしき人たちが演奏していた。
大音量の楽曲に耳を塞ぎつつ、亜子はカウンターへとたどり着いた。
しばらくすると曲が終わり、余韻で騒ぐ客もステージ上の入れ替わりに手を貸しだす。
「来たか」
「呼んだのは誰よ?」
「あんな紙きれを早朝いきなり持って来て、サインさせておきながら挨拶にも来ない馬鹿が悪い」
「だから来たよ」
「呼ばれる前に来い」
その会話に亜子は、ステージに向けていた視線を隣に向ける。
革ジャン姿でサングラスをした白髪交じりの男性と彼が話をしていた。
男性はカウンターの中に居るから従業員なのだろうと亜子は推測する。
「それでその子が」
「ええ」
何となく視線で促された気がして亜子は相手に向かい頭を下げた。
「亜子です。加藤……では無く、椿亜子です」
「お前の嫁にしては真面目だな? てっきりクリスみたいなじゃじゃ馬かと思ったぞ?」
「あんな暴れ馬なんて全力で遠慮します」
男性2人が知らない名前で笑い……柊人は亜子に視線を向けた。
「このオッサンが、俺たちの婚姻届の保証人になってくれた人の1人だ」
「
「……その節はどうもありがとうございました」
「これだよな。普通これが普通だよな」
何故かお礼したことを感動された。
何とも言えない感情に襲われ亜子は夫を見る。
笑っていた彼は涙を拭った。
「俺の知り合いをここに連れて来たことがあってね。それが君と性格が全然違う跳ねっ返りで」
「兄貴とは気が合うみたいだったが……俺は好かん」
「そう言うな。あれでも俺の自称姉だ」
「だからもっと好かん」
肩を竦めて向井と名乗った男性は2人の前に琥珀色の飲み物を置く。
気軽に口に運ぶ柊人の様子を見て亜子もひと口飲む。物凄いブラックなコーヒーだった。
「それで先生は?」
「兄貴なら残業だ」
「左様で」
「しばらく待ってろ。そろそろ来るだろう」
新しくやって来た客に飲み物を渡し、向井はカウンターを出た。
「さてと。店番も来たしやるか」
「勝手に働かせるな」
「気にするな。誰にでも出来る簡単な仕事だ」
ステージに向かう向かいを目で追っていた亜子は、代わりにカウンターの中に入る夫に気づいた。
「柊人さん?」
従業員にクラスチェンジした彼は、その手にエプロンを掴んだ。
「そこでお客さんしてナンパされるのとこっちで働くの……好きな方を選んで」
「……」
選択肢の無い問いかけに、亜子もカウンターを潜り中に入るとエプロンを受け取る。
「ここはドリンクのみのお店だから、注文されたそこの冷蔵庫から出して渡せば良いだけ」
「料金は?」
「何でも1000円。入場料込みだからね」
「分かりました」
言われるがままに従業員と化した亜子は、ドリンクを渡しては代金を受け取る。柊人は馴染みの客と話してばかりだ。
亜子の従業員振りが板について来た頃に彼はやって来た。
「いらっしゃいませ」
「……ふむ。知らん間に可愛い娘がこんな場所で働いていたとはな」
「えっと……今日だけです」
「そうか」
見た印象はどこかステージ上の向井と同じ感じのする人だった。
亜子は救いを求めるように夫に目を向けると、彼はこっちの様子を伺い薄っすら笑っていた。
「で、先生。今日は何の御用で?」
「うむ。あんな物に、早朝いきなりサインさせたのに挨拶に来ない馬鹿が居るから呼んだまでだ」
「そうですか。彼女が妻の亜子です」
「……亜子です」
不意に振られて慌てて頭を下げる。
白髪交じりの革ジャン姿の男性は、サングラスで隠す顔に苦笑を浮かべた。
「本当に厄介なことをする。お前という奴はな」
「ええ。ですが色々と楽しいですよ?」
「お前はな」
言って彼は深いため息を吐き出した。
(C) 甲斐八雲
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