No,19
「貴女のことは色々と調べてあります」
「何処のスパイだよ?」
「イギリスはスパイ大国よ」
エリヘザートの言葉に肩を竦めた柊人は、軽い笑みを浮かべると亜子を見る。
どこかその目に『頑張れ~』の文字が見えた気がして、亜子は内心イラッとした。
「柊人を使い幸せを手にして、貴女に人としての矜持は無いのですか?」
「……」
「野良犬の様に尻尾を振って餌を強請り住む場所を得た。それは淑女として恥じるべき行為です。貴女はそれでも良いのですか?」
真っ直ぐなエリヘザートの目に、亜子は震えながらもその目を見返した。
「……良くは無いです」
「それを理解していて?」
「はい。でも今のわたしにはそれしか無いから」
ポロポロと涙を溢し亜子は正面から相手の視線と言葉を受ける。受け止める。
「クリスさんにも厳しく言われました。分かってます……わたしは甘えているだけだと。だから今は甘えてこれから一生懸命お返しして行きます。この恩を!」
「そう。でも下手をすれば一生を費やすことになるわよ?」
「構いません!」
「えっ? だから亜子。お前は……何でも無いです」
横合いからの酔狂な声はエリヘザートのひと睨みで沈黙した。
いつも通り開き直って変な度胸を見せる亜子が暴走しだした。
「なら貴女は残りの人生を費やし彼に尽くせるというの? 決して強くない体の彼は、下手をすればいつ寝たきりになるのか分からないわよ?」
「構いません。必要なら一生看病でも看護でもします!」
「そう」
険しかった目を優しい物に変え、エリヘザートは息子を見た。
「とんでもない拾い物をしたようね? この子の目には迷いがないわ。だからこそ貴方のことを任せられる」
「褒め言葉として受け取っておくよ。全く」
やれやれと頭を掻いて礼儀を何処かに捨てて来た彼が、頬杖をついて亜子を見た。
「自分が何を言ってるのか分かってますか?」
「……」
勢いで言ってしまった言葉を噛み締め、亜子はその顔を真っ赤にする。
後には引けない。何故なら彼の"母さん"の前で言い切ったのだから。
「そうイジメない」
「イジメてた人にたしなめられたよ?」
「わたくしのはイジメではありません。貴方の母としての務めです」
「うわ~。英国婦人はサラッと凄いこと言うわ」
呆れ果てて机に顎を乗せる彼に、コロコロとエリヘザートは笑い声をたてる。
「それに政略結婚したと思えば、お互いの恋愛感情など後から補うなどありふれたことでしょう? わたくしだって夫と結婚してから初夜を迎えるまでに1年も要しましたわ」
「聞きたくないです」
と、ポンと手を叩いてエリヘザートは亜子を見た。
「わたくしは元気なうちに孫を抱きたいのだけど……この子はあっちの方はどうなの? ちゃんと使えて?」
「おーい?」
「ノーコメントで」
耳まで真っ赤にしてプルプルと震える亜子の様子を察し、エリヘザートは息子を見た。
「日本人は奥手なのかしら?」
「自分はやるまで1年かかったって言ってたよね?」
「あの頃は仕事が忙しく夫は月に1日しか戻らないことが多かったのよ。わたくしは彼の代わりに社交界に出ていたし」
「そうですか」
力尽きたように机に突っ伏す彼の顔色はあまり良くない。
「柊人さん。大丈夫ですか?」
「あ~。ちょっとダメかも」
『あはは』と笑って彼は目を閉じると椅子から転げ落ちた。
「柊人さん!」
床に転がった柊人を抱き起し顔を上げた亜子は、執事やメイドがストレッチャーを押して来るのを見た。
『本当にこの子は……辛いなら辛いと言えば良いのに』
運ばれたストレッチャーに乗せられ固定される息子を見て、エリヘザートは深く深く息を吐いた。
緊急搬送で病院へと運ばれ、服をドレスから準備されたラフな物に着替えた亜子は、個室の病室へと運ばれた彼の横に座っていた。
病院の手配は全てエリヘザートが済ませてくれた。
『これから総理に会って、直ぐにでもロンドンに戻らないといけないのよ』と言った彼女は、亜子のスマホを受け取ると個人の連絡先を登録してくれた。
『一生を費やしてあの子の面倒を見てくれるのでしょう?』と目を見られ問われると不思議なほどすんなりと頷くことが出来た。だから看病は全て亜子任せだ。
時折寝落ちするが、それでも目を覚ましては彼の額に浮かぶ汗を拭う。
長く不安に感じる時を過ごすと……窓を遮るカーテンの隙間からはっきりと日の明かりが見える。
時計を見れば午前10時だった。
「失礼するよ」
「はい?」
少しアクセントが微妙な日本語が耳に届いた。
開かれたスライドドアから白人の男性が入って来た。
どこか細く鋭利な刃物を感じさせる白衣の医師だった。
「君がアコかね?」
「あっはい」
「そうか。私はミハエルだ。それの兄でもある」
「……」
正直な感想としては『あ~。アニメオタクの』としか思い浮かばない。
それでも病室に入って来た彼は、柊人の手を取り……たぶん脈を計ったのだろう手をベッドに戻した。
「たぶんここだな」
「はい? はい~っ!」
夫の体に掛けられているシーツを退け、彼はおもむろに彼の腹部を押す。
余りのことで驚く亜子を尻目に医師は何か所か腹を押した。
「って死ぬほど痛いわっ!」
「起きたか?」
「起きるわ!」
「なら麻酔が要るな」
「このまま手術する気か!」
「案ずるな。1時間で終わらせる」
「マジかっ!」
看護師たちが病室に入って来て、彼はそのまま運ばれて行く。
その様子を眺めていた亜子は、自分を見る目に気づいた。
「それで君があれの結婚相手で間違い無いな?」
「あっはい」
「そうか」
スタスタと歩いて行く医師の背を見送り……亜子は『助けて』という気持ちを込めてスマホを取り出すと新しく出来た姉にメールした。
(C) 甲斐八雲
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