No,6
亜子は途方に暮れていた。
結婚して1日……まだ24時間も経過していないのだが、朝から新しい壁にぶつかった。
机の上に置かれているのは彼が残して行ったクレジットカード。
『疲れてると思うから起こさないで行きます。カードは家族名義のが来るまで買い物などに使って』と手紙が置かれている。
昨夜の家族会議で、余りにもキッチンに物が無いことを指摘したら『費用は負担しますので、使う物はご自由に買って来て下さい』と彼が言い出した。
何でもキッチンを制する者に逆らう意思は無いとのことだ。
それは良い。買い物なら学校が終わってから行けば良いのだから。
何となく亜子はまた時計を見る。時間は午前10時を回っていた。
世間的には新婚初日だ。それなのに寝坊してしまった。
普段なら絶対にないのに……今朝に限ってぐっすりと寝てしまったのだ。
起きたら目覚まし時計が無いことに驚き、壁掛け時計を見て二度驚いた。
今さら学校に行くのも何だか気が抜けてしまい、とりあえず椅子に座って辺りを見渡す。
昨夜の彼との話し合いで、当面は高校を卒業して独り立ちできるまでは結婚生活を続けることになった。
それまでは周りから見られても恥ずかしくないお嫁さんをする。
顔が熱くなって慌てて手で煽ぐ。
気を紛らわせようと机の上のカードを手にして何度か裏表を確認する。
ブラックカードと呼ばれる物だと思う。なぜこんな物が目の前にあるのかは気にしない方が良いはずだ。何でもうん十臆と儲けた金を叔父さんから奪い返し、彼はそれをお金に関しては世界一信用の出来る人物に預けたらしい。
結果凄く増えたと言葉を結んでいた。いくらあるのかは怖くて聞かない。
お金には全然困っていないらしいが、だからと言って贅沢は好きじゃないらしい。
念の為冷蔵庫の中を確認したら、昨夜と変わらずレトルトと缶詰が並んでいた。
「家事はわたしの仕事だし」
小さくガッツポーズを作り、亜子はまず買え揃えるべき物をリストアップする。
調味料から始まり、最低限の調理器具など全てメモする。次いで掃除用具や洗剤などありとあらゆる物を調べ上げ、私服に着替えて街に出た。
平日の……それも学校をサボっての行動に後ろめたさはある。だけども足取りが異様に軽く、歩く度に楽しくなってしまう。
鼻歌でも歌ってしまいそうなほど浮かれ、不意に店先の鏡に足を止めた。
ボサボサの髪が酷い。化粧っ気のない顔はいつも通りだから良いとしても、やはり髪が酷過ぎる。手入れはこれから少しずつとしても、今は少しでも整えたい。
普段なら自分でハサミを駆使してとなるのだが、今日は奮発して自分の預金を降ろしお店に向かうことにした。
彼の前では綺麗でありたいと思ったのだ。
「どうした柊人?」
「一昨日から忙しくてな……お爺ちゃんはもう限界なのよ」
「頑張れ老人」
「労われよ」
「断る」
断られたから諦め、柊人はふと視線を空白の席に向けた。
てっきり遅刻して来るものかと思ったが……ぐっすり寝ている様子だったからあのまま寝ているのかもしれないと思い小さく笑う。
実の家族から解放されたことがそんなにも嬉しく感じる人も居るのだと学び、彼はスマホを取り出すと唯一の肉親である叔父にメールする。
『昨日結婚した』
送信して返事は放置する方向でスマホを懐に戻す。
「なあ」
友人に声をかけると、気怠そうな感じで顔を向けて来る。
「何だ?」
「1つ聞きたいんだが」
「俺に答えられることなら聞こう」
何故か偉そうに胸を張る。
「恋人にサプライズで指輪をプレゼントする場合、相手の指のサイズってどう調べれば良いんだ?」
「良し表に出ろ。俺が生まれてからずっと恋人が居ないと知っての狼藉だな?」
「恋人が居なくても妄想彼女を相手にシミュレーションしているかと思ってな」
「俺の彼女は妄想でもそんなに甘く無いんだよ!」
妄想でも中々に厳しい相手が好みなのだと知っていたたまれなくなる。
長い沈黙に耐えられなくなり……相手がマジで泣き出したので、柊人はサプライズを止めて別の方法を考えることにした。
やはり髪の手入れを指摘された。
コンディショナーから重点的に買い揃え、亜子は2回目の買い物に出ていた。
長い髪はそのままに、ふんわりとウェーブさせたそれが柔らかく揺れる。
丸顔だから額は前髪で隠した方が似合うと言われ、そうして貰ったら確かに似合っている気がする。
言われるがままに整えて貰い、鏡の自分は最近では見せないほど輝いて見えた気がする。
増々機嫌を良くして一度目の買い物をし、二度目は食品を中心に買い進める。
まずあの家にはお米が無い。味噌もみりんも無い。塩はあったが砂糖も無く、醤油とマヨネーズが僅かにある程度だ。
独り暮らしの男性の食事事情に恐怖を覚えつつ、亜子は買い物をしてはそれを運び込むを二度ほどした。
それから買って来た物を綺麗に整頓し、軽く掃除を済ませると夕方になっていた。今夜はレトルトでは無くちゃんとした物を作って食べて欲しいと思い……献立に頭を悩ませる。
彼の好き嫌いを知らないのだ。
そうなると頼るのはレトルト食品のラインナップ。
買っている以上食べられるはずだと信じ、亜子は王道のカレーに挑むことにした。
『お手数をお掛けしました。いやいや。マイクたちは俺に甘いだけですから。手伝って貰った以上叱って欲しく無いんですよ。減給も降格もアフガンや中東送りも無しで。ええ。本当に頼みます。はい。この件は"父"にはまだ。ええ。ちゃんと自分で報告するので。はい。どうも』
厄介な案件を片付け、柊人は英語での通話を終えた。
別に相手は日本語も大丈夫なはずだが、今回迷惑を掛けたのは自分だと自覚しているからこその配慮だ。
今回"
亜子の両親が居なくなった部屋をそのままに出来ず、彼らに丸投げしたら昨日のことを突っつかれたのだ。
別に結婚したことに文句を言われたくは無いが、相手の言う通り"家族"に報告しない訳には行かない。
叔父からも似たような内容のメールが届いている。
《厄介だな。結婚ぐらい静かにさせろよ》
苦笑して柊人はいつも通りゆっくりと自宅へ向かう。
「ただいま」
鍵を開けて入るとカレーの匂いがした。
パタパタとスリッパの音がして、彼女が玄関まで来る。
「お帰りなさい。柊人さん」
「ああ」
目の前に来た人物に柊人は目を疑う。
「どうかしましたか?」
相手の視線に気づき、亜子は小さく首を傾げた。
「結婚したんだなって」
「ははは。もう柊人さんったら……エプロン姿にときめきましたか?」
「そうかもね」
私服の上からエプロンをし、何より髪型も変えた亜子は楽しげに笑うと彼が持つ鞄を受け取り、上がるように促す。
何とはなしに頭を掻いた柊人は……しばらく邪魔をされたくないかもなと思い各方面への報告を後回しにすることにした。
(C) 甲斐八雲
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