No,39

『状態は悪く無いな』

『痛むんだけどね』

『それは諦めろ』


 電子カルテに何やら書き込みをし、ミハエルはレントゲン写真に視線を向ける。


『人工関節も年々新しい物を研究しているが所詮人工物だ。人体に入れてすんなり馴染む方がおかしい』

『今度はそっちのベンチャー企業に寄付するかな』

『お前がその気なら紹介するが?』

『詳しい資料をメールしといて』


 柊人の隣に座る亜子は膝の上でギュッとスカートの裾を握った。

 英会話で進む会話に亜子としては不安が募る。こういう時は言葉が分からないのは本当に辛い。


『それでシュウト。今回の手配は?』

『いつも通り人海戦術でバイト代をはずんだけど……これだったらオークションサイトで落とした方が安くないか?』

『オークションだと期日まで待つのが面倒だ。即決なら即だがな』

『金の使い方を間違えている気がするが』

『下手に貯め込むよりも消費しているのだ。感謝されるだろう』

『そうですか』


 会話が長い。それに兄さんがずっとカルテを見ている。

 亜子としては彼の膝がそれほど悪いのか不安で不安で。


『夏からの新作アニメはハズレばかりだな』

『それは知らん。俺に苦情を持って来るな』

『なぜ日本人はああも原作を弄るのだ?』

『話数と制作費の都合だろうな』

『昔のアニメは50話など多かったのにな』

『ついに古いアニメにまで手を出したか?』

『古きを知ることは大切だ』


 ただ時折『アニメ』と聞こえるのは気のせいだろうか?

 もしかしたら専門的な用語かもしれないから質問は後にしようと亜子は決めた。


『今回は微調整で十分だ。前回の術後からの体調は?』

『悪くない』

『MRIの状況から他の臓器も大丈夫そうだ。欠けてしまった物はどうにもならんが』


 カルテから目を放し、ようやく彼は弟の妻を見た。


「問題無い。子供が出来ないのは私の預かり知らない話だが」

「何の会話をしてたんですか!」


 たとえそこが診察室であっても、亜子のツッコミは止まらなかった。




『結婚してからもう3ヵ月だからな』と言う心優しいお兄様の言葉が亜子の心をザックリと抉った。

 何か月経ってもそう言った行為をしていないのだから子供が出来る訳が無い。


 別方向に不満を向けた彼女だが、実際は彼の膝の調整を見たくないのだ。

 露出している部分に道具を差し込んで何かする……見てて気持ちの良い物では無い。それでも2代目膝関節は前のに比べると良い仕事をしているそうだ。


「これで終わりだって」

「はい」


 視線を戻すと彼が膝にサポーターを巻いていた。

 普段ならそんな物を巻かないが、やはりドイツに向かう飛行機の座席が狭かったのが響いたのかもしれない。


「えっと柊人さん」

「はい?」

「この後は?」

「さあ?」


 肩を竦め彼は手洗いに出て戻って来た兄に目を向けた。


「まだ何か?」

「治療は終わりだ」


 クリスとは違い慣れていない彼の日本語は何処かアクセントが違う。

 それでも会話する程度に使えるのは……日本のアニメをこよなく愛する者の努力らしい。


「そうするとドイツ観光してイギリスか?」

「違う。このまま私のジェットでイギリスだ」

「聞いて無いが?」

「今した」


 鞄を取り出した兄の様子に柊人も諦める。


「そう言う訳でこのままイギリスらしい」

「……旅行って何ですか?」


 言いたくないが、亜子の口からポロッとそれがこぼれ出る。


「言うな。ただしイギリスでは休めるはずだ」

「本当に?」

「ああ。それか母さんに『全く休ませてもらえません』と泣きつけ。基本母さんは娘に甘いからそれで休めるぞ」

「……最悪そうします」




 タクシーで移動し空港からプライベートジェットでイギリスへと飛ぶ。

 機内は話に聞いていた通り、大きなスクリーンと高価な音響設備が整っていた。


「兄さんは溜まっているアニメを見るってさ」

「……普通にベッドとかあるんですね」


 飛行機の後部には左右に隔てる壁と、それで作られた部屋には小さいがベッドまで置かれている。ただ夫婦でひと部屋だ。


「流石に眠いな」

「ですね」


 当たり前だが彼は膝に爆弾を抱えている。座ったままで寝るのは問題だからと亜子がベッドを譲ろうとするが、柊人が座っている椅子から離れない。


「だからベッドを使ってください」

「大丈夫だよ。それにちょっとしたいこともあるから」

「ダメです。またそんな嘘を言ってわたしにベッドを譲る気なんでしょ? いつもいつもそう簡単に騙されませんから!」


 軽く頬を膨らませて亜子は彼の手を掴んで無理やりベッドに連れて行く。

 と、カクンと飛行機が揺れて……バランスを崩した亜子はそのまま柊人とベッドに倒れ込んだ。


「これなら確かに2人で寝れるけど?」


 耳元で囁かれて一気に耳まで赤くなる。

 それでも亜子が逃げなかったのは、その隙に彼がベッドから逃げ出すかもしれないと思ったからだ。


「亜子さんや?」


 急いで腕を回して柊人を抱きしめる。


「このままで良いです。さあ寝ましょう」

「大人しく寝るから変な開き直りを見せないでくれ」

「大丈夫です。夫婦ですから。さあ寝ますよ!」


 結果として緊張のあまり全然眠れず、尚且つアニメをずっと見ていた兄はベッドルームに来ることも無く……隣の部屋が丸々空いたままで、飛行機はロンドンに到着するのだった。




(C) 甲斐八雲

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