No,36
『ガルル』と言う呻き声が聞こえて来そうなほど機嫌の悪いクリスの様子も気になるが、自分の意思に反して絶対に良からぬ何かが展開している現状を察し、亜子は隣に居る柊人の腕に抱き付いていた。
胸を押し付けることになるが、恥ずかしさよりも恐怖の方が勝っている。
行き先を聞けば、『空港だな。うん。滑走路はある』と夫の返事がわざとらしい。こんな場合、絶対的な味方である姉は朝からとにかく機嫌が悪い。
理由はあのステファニーさんらしい。とにかく馬が合わないとか。
どちらも綺麗で美人だが、確かにタイプが違い過ぎる。
クリスはモデル体型のシュッとした感じであり、ステファニーはグラマラスなエッチな体型をしている。
柊人が言うには、『隣の芝生は青く見える』とのことだ。
つまりクリスはステファニーの豊かな胸などを嫉み、ステファニーはクリスの細い体を嫉んでいる。
「柊人さん」
「ん?」
「人間って2人居ると争いが起こるんですね」
「突然何の悟りを得たのか知らんが、クリスのあれは2人の挨拶みたいなもんだ」
「挨拶ですか?」
今にも食い殺してしまいそうなほど牙を剥いてて挨拶らしい。
「アメリカの人って交戦的な挨拶をするんですね」
「その言葉も十分に好戦的だからな」
やれやれと肩を竦め、亜子たちを乗せた車は確かに滑走路のある場所へとたどり着いた。映画とかで見たことのある飛行機が目の前にあるのは気のせいだ。気のせいなのだ。
若干抵抗してみたが、夫と姉に両腕を掴まれタラップを上がる。
「流石大統領専用」
「いや~! 違います! 絶対に違うんです!」
脳内キャパをオーバーした亜子は、クリスの言葉を遮ってその場に蹲った。
「フランスね」
「外遊だしな」
「……」
自分の世界に閉じこもっている亜子は、そのままに柊人とクリスは窓の外を見ていた。
パリ郊外の国際空港に降り立った飛行機は、式典の都合やその他諸々もあって他の飛行機から離れた場所で待機している。
「アメリカ軍の基地ならもっとスムーズなのに」
「仕方ないだろう? 式典は大切だしな」
「……まあ出ないし」
「出たくないな」
姉弟の意見が一致したのでこのまま待機を選択する。
「お父様は仕方ないけどね」
「まあな。その為にステフを呼んだんだろ?」
「大変よね。ファーストレディー役も」
チビリとミネラルウォーターを飲んでいるクリスに、亜子が顔を向けた。
「えっと普通……ファーストレディーって?」
「お父様のワイフはマイアミ沖よ」
「……」
理解して亜子は俯いた。
とても失礼な質問をしてしまった気がして辛くなった。
「仕方ないの。私たちも生き残るのに必死だったし……それにお父様もそれ部分はもう割り切っているわ」
「でも……」
「それにあの人は凄かったのよ」
何故か逃げ出した柊人の尻を叩き、亜子の隣に座り直したクリスが笑う。
「子供に襲いかかろうとしていたサメを鞄で殴ったのよ」
「……本当ですか?」
「本当よ。お蔭でターゲットがあの人に移ってね。シュウトが3回殴って防いでたけど4回目にね」
「……」
凄い話なのに何かが解せない。主に『夫が3回?』の部分だ。
「殴ったんですか?」
「そうよ」
クスクスと笑うクリスは飛んで来たペットボトルをキャッチすると、それを亜子に手渡した。姉が飲んでいたのと同じミネラルウォーターだ。
「テレビで見たんだよ。サメは鼻先に刺激を受けると混乱するって。でも3回目でしくじって突進をモロに食らったな」
「1回沈んだのはそれ?」
「股間にクリティカルヒットは無理だな」
「情けない」
苦笑する柊人は他の椅子に座る。
「でも最後まで毅然としてたよ」
「本当に」
辛い事故だったと断片的に聞いている。
助かった人も本当に少なく、大半は飛行機と一緒に沈み助かった人もサメに襲われ続けたのだから。
「ステファニーが病院に来た時なんてシュウトの襟首を掴んで怒鳴ってたわよね? 『どうしてお母さんを助けてくれなかったの!』って」
「感情の捌け口が欲しかったんだろう?」
「でも管だらけで死にかけていた貴方に噛みつくのは筋違いよ」
ふと亜子は分かった気がして小さく笑った。
クリスがあのステファニーさんを嫌うわけだ。
『私の悪口で盛り上がっているのかしら?』
歩いて来たのは綺麗に着飾ったステファニーだった。
『シュウトのワイフに貴女の悪行を教えていた所よ。死にかけている彼を引き摺り起こそうとして、怒鳴り飛ばしていたって』
『だから謝ったでしょ? シュウトは許してくれたし、それに悪かったと思ったから彼に勉強を教えたのよ? それなのに自称姉の性格と口が悪いから……』
『あん?』
何故か睨み合って喧嘩腰の2人が言い争い出す。
こんな時ばかりは英語が分からなくて助かるな~と亜子は思った。
Fで始まるスラングな単語は無視だ。たぶん気のせいだ。
「止めなくて良いんですか?」
「ほっとけ」
クリスが移動して出来たスペースに移動して、柊人が座り直す。
そのまま放置して置いたら、どうやら準備が出来たらしくてステファニーが強制的に運ばれて行った。
ファーストレディーの大役を担う人物が、中指を立てて激怒する何かを亜子は記憶の奥底に封じて忘れることとした。
「それでわたしたちはどうするんですか?」
「こっそりと降りて……クリスはどうする?」
「先にイギリスに向かうわ。お母様が色々と準備しているはずだから」
服の襟を正し、クリスはペットボトルの中身を煽る。
「なら俺たちはフランスで仕事をしてから……兄さんに連絡を取らないとな」
「お兄さんですか?」
「ああ。忘れたか? 膝の調整」
「……忘れてました」
素直に認め亜子はペコリと頭を下げた。
「まあ良いけど。それが終わったらイギリスだな」
「お母さんの所ですね」
「そう言うことだ」
ようやくこの旅行の行程を亜子は知ることが出来た。
(C) 甲斐八雲
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