No,2

 20××年・マイアミ沖



 バリバリバリと激しい旋回音が響き渡る。

 彼はそれをどうにか見上げ、激しい波に飲み込まれそうになっていた。


 体力などとうに限界だ。

 全身の感覚など怪し過ぎて自分が生きているのかすら怪しい。


『彼を! 先に彼を!』


"姉"となった彼女の言葉に、沈みかかっている少年が必死に顔を上げた。


『彼女を先に!』

『何をっ!』

『良いから先に!』


"父"や"母"と"兄"は先に上がった。残って居るのは2人だけだ。

 本来なら子供2人が先に救助されるべきなのだが、ある力が働いて子供たちが最後になった。兄が先に上がったのは彼が医者だからだ。


『姉さんを先に!』


 ロープ1本で降りて来た海兵に彼は叫んだ。

 その口から鮮血を溢れさせ……ただ必死に。


『OK 戻って来るまで沈むなよ?』


 ニヤリと笑った海兵が暴れる姉を抱えてヘリへと昇って行く。

 それを見上げ……彼は笑って意識を手放した。


 と、同時に横から強い衝撃を受けてその身を震わせる。

 また"あれ"が戻って来たのだ。




「うわっ!」


 文字通り飛び起きて彼は辺りを見渡した。

 そこは雨降る荒れたマイアミ沖では無く、見慣れた自分の部屋だ。


 上半身を起こして……改めてベッドで寝ていたことに気づいた。

 時計に目をやれば午前3時。何となく嫌な時間に思えた。


《参ったね……本当に》


 久しぶりに悪い夢を見たのは、昨日の夕方に押しかけて来たクラスメートのお陰だろう。厄介事に慣れていても、この手の厄介事は初体験だ。


 ベッドから抜け出し彼……椿柊人は軽く体を動かす。

 過去の体験と言う名の悪夢のお陰で全身汗まみれだ。


《とりあえず汗をどうにかするか》


 ついでにシャワーでもと思い部屋を出た。




 彼女が先に浴室に居るとかのラブコメ的なことも無く、手早くシャワーを済ませた柊人は、リビングに来て自分のスマホを覗いた。

 寝る前に飛ばしたメッセージに複数の返事があった。それを眺めつつ、何となく視線を叔父の部屋のドアに向ける。


 夕飯は買い置きのレトルトで済ませ、それから何となく気まずくなり……彼女には適当な着替えと寝床として留守にしている叔父の部屋を提供した。


 もう何年とこっちに戻っていない叔父だ。女性が部屋を使ったぐらいで文句など言わせない。

 何より"姉"が来たら彼女が自室のように使っている場所だ。問題はない。


 厄介者を部屋に押し込む格好になってしまったのがちょっと心が痛むが……それでもどう考えても今の状況は色々と拙い。

 具体的には姉にでも知られた日には、笑いながら殴られそうな気がする。


 軽く全身を震わせ、彼はスマホの画面に集中した。


 頼れる者は"家族"と仲間だ。特に今回は仲間の方が頼りになる。

 いくつかのアドバイスを頭の中に書きこんで……と、叔父の部屋のドアが開いた。


「あっ」


 出て来た彼女が驚いた様子で視線を逸らす。

 改めて自分を見た柊人は納得する。いつもの癖で上半身が裸だったのだ。


「ごめん。普段自宅だと肌着とか着ないんで」

「……いいえ」


 慌ててシャツを探す彼に亜子はその目を向けて、自分の表情が硬くなるのを感じた。

 初めて見た。男性の裸では無く……彼の裸を。

 そしてあり得ないほどの無数の傷跡をだ。


「あの……柊人さん?」

「ん? ああこれ?」


 まるで新しい服でも見せるかのように、彼は自分の上半身を晒す。

 前も後も傷跡だらけだ。


「前に事故に遭ってね……知らない? マイアミ沖で旅客機が墜落した事故」

「知りません」

「だよな~。日本じゃ夕方のニュースでサラッと流れたぐらいだろうしな」


 上にシャツを羽織り、彼は裸と傷跡を隠す。


「運悪くその飛行機に乗っててね。で、この通り」

「……」

「傷の治療に約1年。リハビリにこれまた1年。お蔭で二学年ほど留年しております」


 カラカラと笑って彼は椅子に腰かけた。


「留年?」

「そっ。俺はこれでも今年19になるんだよね。みんなより2歳年上のお爺ちゃんな訳です。だから自称老人なの」

「……」


 知らなかった。そもそもそんな噂すら聞いたことが無かった。

 彼はクラスの中ではあまり目立たないタイプで、普段は仲の良い友人とつるんで馬鹿なことを言っている。


 決して悪目立ちはしないが……たまに学校を休んだり、唯一体育の授業だけは全く動かずサボっている様子を見かけるぐらいだ。


「その傷が原因で体育とか休むんですか?」

「ちゃんと学校の許可は得てるからね? でも仕方ないんだよね。体の至る所をサメに齧られたんだ。お蔭で細かい作業はきついし、何より走れない。

 本来なら両足を切断した方が良いと言われたんだけど……一緒に助かった人の中に凄腕の外科医が居てね。どうにか切断は逃れたんだけどさ」


 本当に軽い口調で告げて彼は自分の足を叩く。

 膝には関節を調整する金具が姿を覗かせる人工的な物が付いている。


「膝とか人工関節で季節の変わり目は疼くし大変なのよ」

「……」


 知らなかった。


「ちょっと?」


 ペタンと床に座った亜子は、ポロポロと涙を溢す。

 慌てて立ち上がった柊人は一瞬よろけるがどうにか踏ん張った。


「ごめんなさい」

「はい?」

「わたし……何も知らなくて……」


 手で顔を覆い泣き出す彼女に、柊人は言葉を続けられず頭を掻いた。


 他人の為に素直に泣くことの出来る相手を前に……彼は何も言えなくなる。

 どこか姉の姿が重なって見えたのだ。




 相手はただのクラスメートの少女だった。

 特に喋ったことも無く、ただ時折視界に入るだけの存在。


 抜けて美人でも無い。可愛い部類だと言えなくも無いが、余り手入れされていない長い髪のせいで暗く感じる少女だ。


 普段から自分の席に居て、他の女子たちとは積極的に関わらない。

 ただそこに居るだけの存在だった彼女が、目の前で泣いていた。


 加藤亜子かとう あこ。それが彼女の名前だ。




(C) 甲斐八雲

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