No,17
リムジンという名の車に初めて乗った亜子は、窓際の座席で小さくなっていた。
どんな場所においても自然体な柊人が羨ましい。というか彼の場合は、体調の悪さもあって横になれる場所を求めている気配がある。
靴を脱いで足を延ばし横になっている彼の傍には、本物のメイドさんが居て色々と対応してくれる。
職業メイドさんの実物だ。その仕事姿は洗練されてて見ていて眩しくなるほどだ。
薄目で夫を眺めていると、気付いた彼が声をかけて来た。
「英会話教室に通う?」
「ずっと通訳してください。それか翻訳機でも作ってください」
「そっちは俺の専門じゃ無いな」
肩を竦める相手に亜子は軽く頬を膨らませた。
「それで何処に行くんですか?」
「まず銀座らしい」
「……」
言葉にせずに『何故?』と念を込めた亜子の視線に柊人は苦笑する。
「プライベートならどうにか誤魔化すんだけど、本来こんな格好で会うことの出来ない人物なんだよ」
「誰ですか?」
「イギリスの女王陛下の知り合いで、私的に相談を受ける相手だな。
プライベートジェットでこっそり来なければ、外務省辺りが大騒ぎして官僚と経済界の偉いさんが列をなして挨拶に来る人物だ」
何処の世界の人物かと思う反面、クリスという姉を見たばかりなので納得してしまう。
「俺の預貯金を全て預けている人でもある。
なあ? 俺の資産って現在どうなってるの?」
「はい。現在12億アメリカドルと8億ユーロほどが運用に回され、日本円で2億ほどいつもの口座に入っています。一部の資金は投資時期を見計らっているので待機しておりますが、軽く見繕って日本円で5,000億程度かと思われます」
「だそうだ」
金額よりも流暢な日本語を操るメイドに驚かされた。
だったら英語では無く日本語で会話してて欲しい。
「額が大き過ぎて全く分かりません」
「だよな。何故そんなに増えたの?」
「はい。エリヘザート様のグループ企業の価値は、シュウト様がご資産全てをお預けになった時に比べ1,400%程度ほど増えております。何よりクリスティン様のブランドの価値も高騰し、パーセンテージで株式を保有しているシュウト様の資本は莫大にございます」
「そうですか」
流石の柊人ですら聞いてて背筋が寒くなって来る。
あの人は息子の信頼に応えるためにどれほど本気を見せているのか末恐ろしくなる。何より姉への投資なんていつしたのか記憶にない。きっと母さんが『売れる』と判断して動いたのだろう。そう言った山師の部分が彼女にはある。
「で、そんな母さんは?」
「はい。現在はミハエル様の診察を受け、数人のお知り合いと私的に会合している頃かと思います」
「あっ兄さん来てるんだ。助かるわ」
安堵の息を吐いて柊人は座席に体を預けて脱力する。
「なら着くまで少し寝てるから宜しく」
「はい」
メイドとの会話を止めて彼は仮眠をとる。すると何故かメイドにロックオンされた気になり……亜子は無駄なまでに丁寧な対応をして来るメイドの攻撃に目を回すこととなった。
「……」
鏡に映る別人が居た。
残念なことに手を動かすと同じ手が動くのでどうやら自分らしい。
《誰っ!》
心の中でツッコミを入れながら、亜子はドレス姿の自分を見る。
シックな色合いの落ち着いた既成のドレスだが、簡単な手直しを受けて良く馴染んでいる。それでも着たことの無い物だから違和感は半端無い。
メイドに案内され、お店の奥へと歩き裏口へと向かう。
リムジンには先に着替えを見繕った柊人がさっきまでと変わらない服装で待って居た。
「……」
「……」
静々と車の中に入った亜子は何とも言えない気持ちで相手を見た。
私服姿とかズルいが本音だが。
対する柊人はドレス姿の亜子を見て何とも言えない気持ちになる。
いつも通りに世辞の1つでもと思ったが言葉が出て来なかったのだ。
「それではエリヘザート様が滞在しているホテルへと向かいます」
「……ああ。頼む」
メイドの声で我へと還り、柊人は亜子の手を取り彼女を自分の隣に座らせる。
「柊人さんは着替えて無いんですか?」
「向こうに行ってから着替えようと思ってね。スーツとか出来るだけ長時間着たくないんで」
「わたしもです」
変に力を入れると破れないか不安になり、亜子はスッと背筋を伸ばしたままで座席に腰を掛けている。するとメイドがクッションを手にし亜子の背中部分に差し入れた。
「ありがとうございます」
「いいえ。苦しいようでしたら胸元のリボンを少し緩めると楽になると思います」
「あっはい」
言われて亜子はリボンを緩める。スルスルと解けるリボンは拘束力を失い、圧縮されていた彼女の胸が自由を求めて動き出す。
物凄い谷間を見せられた柊人は、そっとハンカチを取り出し亜子の胸元に置いた。
「……ごめんなさい」
「良いんだけどね。別に」
何となく気まずそうな空気を漂わせる2人に、メイドは胸のカメラが仕込まれているブローチの位置を確認し、耳に収まっているマイクからの『上出来よ』という主人の声に内心で微笑んでいた。
生真面目なエリヘザートが唯一こんな風な悪ふざけをするのは、家族に対してのみだからだ。
(C) 甲斐八雲
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