No,13
人生で最高の贅沢を味わっている気がする。
亜子は深夜の大浴場で、1人きりで湯船を支配し大の字になっていた。行儀は悪いが開放感が半端無い。
本当なら深夜帯の入浴は事故防止の観点から2人以上が好ましいとのことだが、夫婦2人で来たので一緒に訪れる相手が居ない。何より『大浴場を独り占めするのは気分が良いぞ?』とか入り知恵をした人が悪い。本当に最高なのだ。
このまま暖かなお湯に抱かれて漂い流れていきたくなる。
本当に幸せだ。幸せ過ぎる。
体の全てが蕩けてしまいそうなほど温泉を堪能して亜子は上がった。
髪を乾かしラフな格好で自室へと向かう。途中で自販機で頼まれていたジュースを買って彼から預かった鍵で部屋に入った。
「お帰り」
「ただいまです」
部屋を暗くしてBSで映画を見ている柊人がベッドにしたソファーで横になっていた。Tシャツに短パンのラフな格好だ。
傷跡に布が触れると痒くなるので柊人は上半身裸が多かった。
ただ亜子の視線を気にして最近はずっと服を着ている。
「大丈夫ですか?」
「ああ。ちょっと浸かり過ぎた」
「その気持ち分かります」
自分も存分に堪能した亜子だ。相手の気持ちが痛いほどに分かる。
「はい。頼まれたジュースです」
「どうも」
ジュースと言ってもスポーツドリンクだ。
それを受け取った彼はひと口飲んでまた映画に目を向ける。
「柊人さんって映画好きですよね?」
「嫌いじゃ無いな。それに英語って聞いて無いと忘れそうで」
「あはは。そんなこと言うのは柊人さんぐらいかと」
言って亜子もソファーの近くの床に座ってテレビ画面を見る。
しばらく映画を見続けていると、知らない音色が響いて来た。
自分でも彼のスマホでも無い音だ。
「あっ来客だ。こんな時間に?」
「わたしが」
立ち上がろうとする彼を制して亜子がドアフォンへと向かう。
ボタンを押すと小さなモニター越しにとびきりの美人が立っていた。
「hello」
「……大変です柊人さん。外人さんが」
「聞こえてる」
彼はため息を吐くとスマホを手にして何やらコールする。
すると小さな画面に映る美人がスマホを手にした。
『今は動きたくない。ロックは解除するから部屋まで来てくれ』
『ok』
流暢な英語での会話が終わると、柊人の指示で亜子は壁に取り付けられているボタンを押す。
モニター越しの美人がオートロックの扉を抜けてマンションの中へと入って行った。
「柊人さん?」
「済まん。まさかあれが来日しているとは知らなかった」
慌ててタブレットPCを操作しだした彼は、ある項目を見つける。
『クリスティン・ミラー極秘来日か?』
そのタイトルと彼女らしい姿をした写真がネットに上げられていた。
「しまった。極秘とか無理だ」
「えっと……」
何とも言えない表情で柊人を見る亜子は、またチャイムの音色に辺りを見渡す。
「来たみたいだから入れてあげて」
「分かりました」
言われて玄関に移動して扉のロックを解除する。
「my brother」
「うわっ」
飛び込んで来た相手に抱き付かれ両の頬に軽い口づけを受ける。
一瞬で顔を真っ赤にした亜子は、何も出来ず棒立ちになって口をパクパクと動かす。
と、それに気づいた女性が……両手を放して亜子を見た。
『この泥棒猫がっ!』
「ふな~!」
英語で怒鳴られ、何故か両頬を抓まれ左右に引き伸ばされた。
「これが俺の自称姉のクリス。本名はクリスティン・ミラー」
「くりす?」
紹介を受けた亜子はその名に首を傾げる。
何故だかとっても良く聞いたことがある気がする名前なのだ。具体的に言うと今流れている映画のヒロインの本名がそれのはずだ。
『古いの観てるね』
『ただの偶然だ』
彼が寝ているソファーに腰を下ろしたクリスはそう言って笑う。
今流れている映画は幼き頃の自分が出演している物だった。
『懐かしい』
『ああ。この頃のクリスは大人しそうで……痛いぞ?』
『失礼なことを言うからよ』
流暢な英語で会話している2人……クリスはその手を柊人の腹から離すと、視線を亜子に向けた。
『彼女?』
『誰に聞いた?』
『お兄様が全員にメールを』
『あっちか。あの人なら広げないと信じたのに』
『ダメよ。だからお父様もお母様も来るわよ?』
『最悪だな』
頭を抱えて彼は力無く横になる。
「それより」
英語から日本語に切り替え、立ち上がったクリスは亜子の前に来る。
世界的に有名な女優兼モデルを目の前にして……亜子は全力で逃げ出したくなった。何と言うか住む世界の違いをまざまざと見せつけられた気がしたからだ。
「シュウト」
「ん?」
「日本はこんな幼い人との結婚て大丈夫なの?」
「俺たちより2つ下なだけだぞ?」
「っ!」
とても滑らかな日本語での会話が終わると、驚いて目を剥いた彼女が亜子に手を伸ばし確認する。
その手で全身を確認し……何故か撫でた両手を見つめて全身を震わせる。
『これで16! 胸なんて私よりも大きいわよ!』
『その言葉は褒めているのか? 馬鹿にしているのか?』
両手で胸をガードし震えている亜子は、たぶん胸のことを言われていると気付いた。今まではずっと自分のサイズに合う下着が買えず、騙し騙し中学生からの物を使い続けて来た。
それが柊人と結婚してから服装に気をつけるようになり、下着だってちゃんと新調して自分に合うサイズの物を使っている。ただ店員からは『よくこんな小さなものに押し込んで……羨ましい』とかボソッと呟かれたが。
自分の手と亜子の胸とを何度か見比べたクリスは、彼女の手を掴むと強引に引き摺って行く。向かう先はベランダだ。
『使うわよ』
『お手柔らかに』
「ふぇぇぇぇ~」
勝手に英語で進められる会話に亜子は取り残されていた。
(C) 甲斐八雲
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