エピローグ 最後の一目惚れ/最初の握手

6/24 B-END

 オレは、息を切らして走っていた。


 早朝のランニングは日課だ。

 こうして自分の身体と心を調整する。


 この日課を、ここ二週間ほどは絶えず見守る女の子がいた。


 今はもういない。


 それを喜ぶべきなのかどうかが未だによくわからない。


 二週間前なら迷うことなく喜べただろう。

 二日前ならきっと悲しんだ。


 六月二十四日、日曜日。

 十年前に行ってきてから、もう二日が経つ。


 あれからオレたちは一度もタイムスリップはしていない。

 試してはいないが、多分できないのだろうと思う。


 河川敷を走り、荒く息を吐く。


 なんとなくオレたちがタイムスリップをするようなことはもうないのだろうと思う。

 少なくともあと十年くらいは。



「未来の麻倉が直接サトミという少女を助けなかった理由について、考察するのは難しくない」



 オレと渡瀬から十年前での出来事を聞いた田辺は静かに言った。



「視点を変えてみるんだ。おれたち自身が将来、過去の自分を助けようと考えた場合、直接サトミという少女を助けてはいけない理由とはなにかを」


「悪いけど、田辺。オレさっき溺れかけたばっかで頭が回らないんだ。優しめの講義で頼む」


「すまない、では簡潔に話そう。そもそも幽霊となった少女はなぜ麻倉に取り憑いたのか。それはつまり、以前からその子が麻倉のことを知っていたという可能性が高い」


「知ってたって言われても、本当に面識はなかったんだぞ」


「だが実際には今の出来事で十年前に面識ができていた。溺れかけていた自分を助けようとしてくれた高校生男子について、その子は覚えていたはずだ」


「それは違う。サトミは記憶喪失だったんだぞ」


「どの段階から、どの程度の記憶を失ったのは定かではないはずだ。無意識的に、かつて自分を救おうとした麻倉を頼った、ということも考えられる」


「それが、未来のオレの怠慢にどうつながるんだ?」


「川に落ちたとき、真っ先に二十五歳の麻倉がその子を助けていれば、その子の印象に残ったのは二十五歳の麻倉になる。それでは高校生のお前に取り憑くことができない」



 だからあくまで高校生であるオレが助けなくてはならなかった、と田辺は言った。



「うーん、ちょっとわかんないんだけど」



 渡瀬が眉間にしわをよせ、こめかみを抑える。



「麻倉はサトミちゃんに取り憑かれたから、十年前に行って助けようとしたんだよね。で、サトミちゃんは麻倉に助けられたから幽霊になったとき、麻倉を頼って取り憑いたって話?」


「ああ、そうなる」


「それっておかしくない? どっちが発端なんだかわからないよ。ぐるぐるループしてる」


「発端となる出来事がそれぞれの結果に結びついている、という指摘か。それはもっともだな」


「俺、そんな小難しいこと言ったんだ」



 指摘した渡瀬のほうがびっくりしている。



「あるいは別の過去があったのかもしれないな。別の未来と言い換えてもいい。たとえばサトミという少女が死んだ場合だ」


「今だって助かったとは言い切れないけどな」



 十年前に、オレのしたことがどの程度の影響があったのかわからない。

 まったく無意味だったかもしれないし、もしかしたら特別な効果を発揮したのかもしれない。


 どちらにしても、確かめるのは簡単だ。


 十年前の新聞でも調べて、サトミの生死を調べればいい。


 だがそうする勇気はなかった。



「その過去や未来において、麻倉とサトミという少女には接点があった。そのことを発端として、時間移動や介入が繰り返された結果、この形に落ち着いたのかもしれない」


「つまり最初は別の理由でオレはサトミを助けようとした、あるいはサトミがオレを頼った。だがタイムスリップを繰り返しているうちに、発端となる理由や現象が変わってきた……ってことか」


「あくまで仮説だがな」


「ややこしいー」



 オレよりも早く渡瀬が音を上げて、倒れこんだ。


 それで二日前の考察は終わりになった。


 走りながら、視線が電柱に貼られた夏祭りのポスターを見つける。

 今年は今日、二十四日の日曜日に開催されるらしい。


 去年までとは見方も変わるだろう。

 特に花火の音については。


 そんなことを考えながら、走る。


 やがていつも休憩する公園が近づいてくる。

 それがルーチンだ。


 田辺の考察をうまく消化できたわけじゃない。


 だがもうすでに終わってしまったことだ。


 これ以上、オレがサトミにしてやれることはなにもない。


 だから想像の中でうまくいったと信じる。

 サトミは無事に生きていて、どこかで幸せに暮らしている。

 そう想像するだけだ。それでいいんだと思う。もう会うことはないんだから。


 早朝の公園はひっそりと静まり返っている。


 もうすぐ七月だ。


 もう寒さはない。

 汗ばむ中で歩調をゆるめる。


 普段からほとんど人がいない公園は、大抵犬の散歩をしている人が通り過ぎるくらいだ。


 なのに、今日は珍しくベンチに人が座っていた。


 つばの広い麦わら帽子をかぶった人がいる。


 顔は見えないが、小柄だ。

 薄いカーディガンを羽織った腕が、膝の上に揃えて置かれている。


 ワンピースの丈は長い。

 露出した足首はひどく白かった。

 朝日を浴びて、服に負けないくらい色白だ。


 女の子だ。


 朝早くから、こんなところに一人でなにをしているのだろう。

 誰かを待っているのだろうか。


 首にかけたタオルで汗をぬぐいながら、少女の前を通り過ぎようとした。


 なぜか後ろ髪を引かれる。


 顔も見てないのに一目惚れか、と笑ってしまいそうになる。

 渡瀬じゃあるまいし。

 これではまるっきり不審者じゃないか。


 それでも、立ち止まってしまった。


 理屈はきっとない。


 ずっと前からそうすることが決まっていたのかもしれないし、あるいはずっと未来から決まっていたのかもしれない。


 少女もまた、オレを見上げていた。


 麦わら帽子の下に隠された顔が見える。


 どこかで見たような顔をしていたが、すぐには思い出せない。



「あ、あの……」



 両手で帽子のつばを掴んだ女の子が立ち上がる。



「あ、麻倉さん、ですか……?」


「え、あぁ、はい……」



 わけもわからず肯定する。



「やっぱり、夢で見たとおりです……」


「えぇっと……」


「ご、ごめんなさい。わかりませんよね」



 声をうわずらせ、おずおずと帽子を取る。


 伏し目がちにこちらを見た女の子は、ひたすら肌が白い。


 あまりの白さに透けていそうなくらい……あ。



「透けてない!」


「え、服が……あれ、透けてないんですか?」



 少女はとっさに帽子を胸の前に抱きよせる。


 いや、でも……そんなはずは。



「も、もしかして、サトミ……?」


「は、はい。あれ……でも、どうしてわかるんですか? あれは夢だったんじゃ」


「夢?」


「変なこと言ってごめんなさい。その、私、子どものころから何度も似たような夢を見るんです。自分が幽霊になって、高校生の男の人に取り憑いちゃうっていう変な夢なんですけど……」



 夢。

 ワンピース姿の女の子は、恥ずかしそうに言った。



「でも夢のわりには色々と鮮明で、だからその……」


「夢のとおり、オレが朝に走ってるかどうかを確かめに来たのか」


「はい。ごめんなさい、こんなこと言って……私、おかしいみたいです」


「オレにとっては夢じゃなかったけどな」


「え、じゃあ……」



 信じられない、といった目で女の子はオレを見る。


 だがオレだって同意見だ。

 混乱したのか女の子は、オレに大慌てでお辞儀した。



「あの、座りませんか? 話したいことがあるんです」


「それじゃあ、少し」



 並んでベンチに腰を降ろす。


 まだ慣れない。

 あのサトミが、こんなに立派に成長するなんて。


 まだ不健康そうな色の白さだが、それでも生きているだけでいい。


 数日前まで一緒にいた幽霊のサトミは、ずっと薄いピンク色のパジャマ姿だった。

 少し華奢だったが、子どもらしい起伏のない体型だった。


 しかし目の前にいる少女は、体型も大人びたものとなり、なにより身長の伸びが著しい。


 顔立ちや雰囲気はサトミのものだが、にわかには信じがたいものがある。



「男子三日会わざれば刮目して見よ、とは言うけど女子もすごいんだな」



 考えたすえに出た結論はそんな言葉だった。



「ふふっ、麻倉さん。三日じゃありません、七年……いえ、十年ですね」


「そうなのか?」


「はい、多分。私がその夢を見るようになったのは、幼いころ川で溺れかけたときからなんです。一種の臨死体験なんでしょうか」



 それから何度も、断片的にサトミはオレの夢を見たと語った。



「内容は色々です。除霊されかけたこともありますし、泳ぎの特訓をしたこともありますし、私がいることに麻倉さんが気づいてくれなくなったこともありました」


「最初の方は覚えがあるけど、気づかなくなったっていうのはなんだ?」


「あるときから急に、麻倉さんに私の姿が見えなくなってしまわれたようでした。お墓の前でのことです」


「……じゃあお前、その後もオレと一緒にいたのか?」


「はい、一応」


「オレ、相当みっともなかっただろう」


「いえ……あの、嬉しかったです」


「俺は恥ずかしくて死にそうだ」



 サトミが消えたと思って取り乱していたときのことを、全部間近で見られていた。


 うん、恥ずかしい。



「他にも色んな夢を見たんです。私が死んで家族が悲しんでいる夢や、川で溺れかけているとき麻倉さんも一緒に溺れてしまう夢。幽霊の私が成仏する夢も見ました」


「それはどれもオレの記憶にはないな」


「ではこれはただの夢だったんですかね」



 多分、違うだろう。


 奇妙なリアリティをもつ夢を見た経験はオレにもある。


 幼いころ、目の前で小さな女の子が溺れ死ぬ夢。

 自分自身が川で沈んでいく夢。

 今思い出せるのはそれくらいだ。


 これらはきっと、田辺の言う〝別の過去〟のなごりなのかもしれない。


 実際にどこかの過去で起こった出来事であり、今の時間では起こらなかったことでもある。


 夢で終わらせろ、と自称父親――未来の自分が言っていたことを思い出す。

 あれはきっとそういう意味だったのだろう。



「悪夢が夢で終わってよかったな」



 サトミが幽霊になった、という過去はなくなった。


 だから、今目の前にいるサトミはオレと過ごした六月のことを夢だと思っている。


 ならそれでいい。

 自分が死んだ過去がなくなったのなら、それでいい。



「実を言うとですね」



 サトミは恥ずかしそうに言った。



「これまでも何度か麻倉さんを見にここに来ていたんです」


「そうなのか?」


「でも、いきなり夢の話をするなんて変だし、勇気が出なくて。でも今日は、あの、夏祭りの日ですから。悪い思い出を吹き飛ばす意味でも、思い切って声をかけてしまいました」



 オレたちはついに黙りこんでしまう。


 言いたいことはたくさんあるが、なにも言えなくなってしまった。



「まぁ、その……なんだ。生きててよかったよ」



 オレが伝えたいのは、それだけだ。

 それだけで救われる。


 よっと、立ち上がる。



「送るよ。いくら元気になったって言っても、ひとり歩きはまだ心配だ」


「いいんですか? ジョギング、まだ半分ですよね」


「よく覚えてるな。でも、いいんだ」



 走ることそれ自体が目的なのだから、別のことが大事になれば変更もやむをえない。



「あの、えっと、麻倉さん……もし、よかったらなんですけど、今晩一緒にお祭りへ行ってくれませんか?」


「花火、もう大丈夫なのか?」


「きっと平気です。一人じゃなければ、ですけど」


「わかった。行こう」



 オレがそう言ったときのサトミの笑顔は、幼いころのものによく似ていた。



「その、麻倉さん。もうひとつお願いしてもいいですか?」


「なんでもどうぞ」


「手、つないでください」



 帽子のつばを片手でさげ、顔を隠したサトミは反対の手を突き出してくる。



「オレ、走ってたから汗かいてるけど」


「かまいません」


「……それじゃあ、失礼して」



 そっと、サトミの手を取る。

 細くやわらかで、少し冷たい手。



「大きな手ですね。ふふっ」



 なにが嬉しいのか、顔を隠したままサトミは笑う。


 つられてオレも笑ってしまう。


 そうか、わかった。

 手をつなぐこと自体ではなく、お互いに触れられるということが大事だったのだ。



「なぁサトミ、今いくつ?」


「十五歳、高校一年生です」


「同級生かよ……!」


「はい。やっと追いつけました」



 つい数日前までオレの周りを浮いていた幼女が、いつの間にか同級生の女の子として隣りにいる。

 実にとんでもない展開だ。


 ……まぁいいか。

 ハッピーエンドなら、それで。


 オレはサトミと手をつないだまま、歩き出す。


 これまで一緒に過ごしていた時間は決して短くはなかったけれど、それは初めてのことだった。

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