6/19 B-12

 六月十九日。


 クソオヤジをとっちめる、と決めた日から数日が経ってしまった。


 渡瀬が帰ってきたのが十五日、その日が金曜日だったせいで土日と月曜日の三日間を挟むことになってしまった。


 ようやく訪れた火曜日、七年前へ行ける日だ。



「行くぞ、サトミ」


「はい」



 放課後になってすぐ、オレは立ち上がった。



「行くぞ、渡瀬」


「あ、いや……」



 いつもはオレよりもやる気の渡瀬が今日は歯切れが悪い。



「なんだよ、どうした」


「実はさっき高垣先生に用事を頼まれて」


「高垣……ああ、あの美人女子大生」



 教育実習の期間は約三週間だと聞いている。

 今週いっぱいはまだ、あの女子大生先生も学校にいるのだろう。



「そんなの断れよ」


「いや、それはできないよ。DVDのことでもお世話になってるんだし」


「じゃあ鍵を貸せ。田辺と先に行ってる。行こうぜ、田辺」



 渡瀬から古い鍵をひったくると一階の映研に向かった。



「珍しく急いでいるな」


「用事があるんだよ」



 この数日の間、サトミの姿が消える現象は頻発した。


 本人が気づくものもあったが、気づいていないものもあった。

 痛みを感じたりしないのは、救いのように思える。



「そのわりには今日は荷物を持っていないようだが」


「もう水泳の特訓に付き合ってられない」



 サトミの姿が消える、ということが頻発している以上、結論は早く手に入れなくてはならない。


 サトミがいったいどこの誰なのか。

 今はどういう状態なのか。


 少なくともあの父親が知っていることをすべて聞き出さなくてはならない。


 いつもどおり鍵を見ていてくれる、という田辺に別れを告げて、七年前へと通じる扉を開いた。


 田辺の仮説通り、左手でひねるとそれはすんなりと開いた。



「あ……」



 扉が開いたとき、一瞬だけ河村が目を輝かせた。


 だが現れたのがオレだけであることに気づくと、その瞳の色がくすむ。



「あれ? 渡瀬くんは?」


「あいつは美人女子大生につかまった」


「なにそれ?」


「教育実習生の高垣先生っていうのがこっちにはいてな。その人の手伝いで遅れるって」


「ふーん」



 感情を出すまい、としている声音を感じるがそのことが少なからず快くは思っていないことを表現している。


 なんにせよ、こっちはゆっくり好感度を上げていけばいいさ。


 いつもどおり窓から出て、川へと向かう道中を歩く。



「河村さん、ちょっと変でしたね」



 宙に浮かぶサトミが、考えるように視線を床に落とす。



「いつもよりなんていうか、勢いがないっていうか」


「そりゃ渡瀬が来てないからな。調子も出ないだろ」


「ということは、お二人の仲は順調なんですかね。あれはもしかして嫉妬……!」


「楽しそうだな、サトミ」



 こんな年頃から、人の恋愛話が好きなあたりサトミもしっかり女子なんだなと思う。



「やっぱり恋には障害があったほうが、燃えると思いませんか? マンガや映画だと、必ず二人の間には障害が立ちはだかるんですよ。時間を隔てた二人の恋……燃えますね」



 ぐっと拳を握りしめて、サトミは笑った。


 最近は自然に笑うことが増えたように思う。

 いいことと言えばそれくらいだ。



「それに――」



 サトミの声が急に途切れる。


 オレは会話をしていても、サトミをまっすぐ見ていたわけではなかった。

 だから周辺に浮かぶ姿が見えなくなって、正直あわてた。


 オレのそばから離れられないサトミを見失うことはない。


 それでも見つからないということはつまりサトミは。



「サトミ?」


「――はい? 麻倉さん、どうしたんですか?」



 急にふっとサトミの姿が空中に現れる。



「もしかして私、なにか変なことを言いました?」



 よほどマヌケな顔をしていたのかもしれない。

 あわてて本心を隠す。



「いや、ちょっとぼーっとしていただけだ」



 なにが起こったのかの検討はついている。


 サトミの全身が消えたのだ。


 今までも部分的に身体が消えることはあった。

 だが、全身が消えるのはこれが初めてだ。


 さいわいすぐに戻ってきたし、自覚症状はないようだが、事態はかなり進んでいるらしい。



「それならいいんですけど」



 河川敷が近づいてくる。


 商店街を抜ければもうすぐだ。


 商店街にはポスターが貼られていて、もうすぐ夏祭りがおこなわれるという告知だった。


 このあたりでは毎年、六月第四週の日曜日に夏祭りがおこなわれる。

 花火も打ち上げられる予定だ。

 もちろん天気が悪ければそうもいかないが。



「もうすぐ夏祭りか」



 七年前の日程は六月二十五日、日曜日。


 曜日が一つずれるからこっちだと二十四日が祭りの日ということになる。



「麻倉さんはお祭りに毎年いらっしゃるんですか?」


「行ったり、行かなかったりだな。去年は、中学校を卒業するからって記念にクラスの連中と一緒に来たけど」



 そのときの祭りで印象に残っているのは天気が悪かったことだ。


 祭りの目玉である花火も打ち上げられず、湿気でムシムシしたアーケードの下をクラスメイトとそぞろ歩いた記憶しかない。



「サトミは、なにか思い出せるか?」


「はい、少しだけなら。両親やお友達の家族と出かけてきたんですが、花火の音が苦手で一人だけ離れたところにいました。まだぼんやりとしていてはっきりしませんが」


「そういえば花火の音が苦手って言ってたもんな」



 いや、待て。


 違和感が胸の奥に芽生える。


 今まで気づいていなかったそれが、今の思い出話をきっかけにどんどんと大きくなる。


 それは嫌な予感だった。

 けれど、一から順番に考えていけば矛盾しない答えは一つしかない。



「どうかしましたか、麻倉さん?」


「……もしかしたら、オレはひどい勘違いをしていたのかもしれないな」



 できれば、そうではないことを望む。

 でなければ、打つ手がなくなってしまうのだから。



「サトミ、一番最後の記憶が何月何日のことかわかるか?」


「いえ、そこまでは……今、夏祭りのことが思い出せたばかりですし」


「それは遠い昔の記憶じゃないんだな」


「はい。感覚としては最近? いえ、一年前くらいでしょうか」



 遠い昔の記憶なんてサトミに存在するはずもない。

 サトミはまだ子どもで、祭りに自分の足で参加したのなんて一度か二度くらいだろう。


 そしてその祭りは、雨じゃなかった。


 サトミが記憶喪失でなければもっと早く気づいていた。


 あるいはこの話さえしなければ、気づかずにいることができたのかもしれない。


 だが気づいてしまった。



「オレは勘違いしてたんだ。てっきりお前はオレと同じ時間の幽霊だと思ってた」


「どういう意味ですか?」


「オレが記憶しているかぎり去年の夏祭りは雨だった。花火は打ち上げられていない。だから少なくともサトミが思い出した夏祭りの記憶は二〇〇六年のことじゃない」



 ではいったい、いつのことなのか。


 祭りの天気を七年分覚えているわけではない。


 だけどきっと、この二〇〇〇年における去年――一九九九年の夏祭りは天気に恵まれ、花火を打ち上げたのだろう。

 そう考えれば、辻褄が合う。



「だったらサトミ、お前が幽霊になったのはこの時間だ。二〇〇〇年に幽霊になったんだ」



 母に尋ねてもサトミという患者が見つからないわけだ。


 相変わらずサトミが幽霊になった原因はわからない。

 だが、病気にせよ事故にせよ、それが起こったのは二〇〇七年ではなかったんだ。



「で、でもどうして? 幽霊だからってタイムスリップなんかできるんでしょうか?」


「わからない。だけど、オレとお前が初めて出会ったあの日は、渡瀬が初めてタイムスリップを経験した日でもある。なら、そのとき一緒にこっちへ来たということも考えられるだろう」



 どちらにせよ、サトミの記憶は曖昧で細かい部分はわからない。


 ただ、少なくともサトミが幽霊になったのはこの二〇〇〇年だ。

 その推測はきっと間違っていない。


 七年前の幽霊に取り憑かれていた。


 その前提に対する勘違いが致命的に響いた。


 もっと早くに気づいていれば……いや、それでも変わらないのか。


 この事実が示すことは単純だ。

 田辺の提案した「過去に戻ってサトミが幽霊になることを防ぐ」という方法が成立しなくなった。


 なにせここはオレにとっては過去であっても、サトミにとっては現在なのだから。



 ***



「本題に入らせろ、不審者」



 河川敷で待ち受けていた自称父に、オレは単刀直入そう告げる。



「回りくどい時間稼ぎはなしだ。あんたの狙いがなんなのかは知らないが、オレは勘違いに気づいたぞ」


「へぇ、それは?」


「サトミはオレと同じ時間じゃなく、七年前のこの時間で幽霊になった。そうだろ?」



 自称父は肩をすくめた。

 それだけでなにも言わない。



「あんたはなにかを知ってると言っていた。サトミのことを言い当てたからそれを信じたが、あれはウソだったのか?」


「教えてほしいなら素直にそう言えよ。そうしたら教えてやる。だがよく考えろ、お前は本当にそれを知りたいのかどうかを」



 本当のことを知りたいのかどうか。


 相変わらず、いやらしい質問をしてくる。


 いつものそうだ。

 この男はまるでオレの心を読むように、そのとき一番言われたくない嫌な言葉を投げかけてくる。


 即答することはできなかった。



「麻倉さん……?」



 サトミが不安げにオレを見つめているのはわかっている。

 父親の視線をまっすぐ受け止めることもできない。


 わかっている。

 オレは怯えているんだ。


 父が言葉通りの真実を知っているのなら、それを聞けば答えが出てしまう。


 そこでサトミが死んだことを確認してしまえば、それでおしまいだ。


 今まで父に強気でいられたのは、あくまで七年前ならばサトミが無事だという前提があったからだ。

 さっさと手がかりを引き出して、事故であろうと病気であろうと早めに手を打っておく。


 それで幽霊になることを防げる、と無邪気に信じていたからにほかならない。


 だが今は違う。


 この七年前の時間でサトミがすでに死んでいるのだとすれば、オレにはもうどうすることもできない。


 そう考えると言葉はどうにも出てこなかった。



「じゃあヒントだ」



 父はやけに明るい声で、一つの住所を口にした。


 サトミは耳慣れぬようで首をかしげているが、オレにはそこになにがあるかわかる。


 そう遠くはない。

 歩いてでも迎える距離だ。



「じゃあな、オサム。あとはお前たちの問題だ」


「あんたは勝手だ」



 答えが欲しいときにはそれを与えず、それが不要になってから、恩着せがましく押しつけてくる。

 あまりにも理不尽でオレは拳を握りしめずにはいられなかった。



「オサム、悪夢は好きか?」


「なんだよ突然」


「悪夢だよ。あれって眠っているときはリアリティがあるだろ。で、目が覚めたときひどい夢を見た余韻が残っている。そのときその夢を見たこと自体を不運だと思うか、それとも悪い出来事がすべて夢で終わってよかったと思うか。お前はどっちだ?」


「そんなこといきなり言われて想像できるわけないだろ」


「じゃあ時間をかけて考えて見るんだな」



 そう言って今度こそ父は悠々と歩いていってしまう。


 追いかけることも呼び止めることも、俺にはできそうもなかった。



「麻倉さん。これからどうします? とりあえず、あの人のおっしゃっていた住所に向かってみるほうがいいんでしょうか」


「いや……今日はもう疲れた。また次の機会にしよう」


「……わかりました。では今日はもう戻りましょうか」



 オレの言葉を無理に飲み込むように、サトミはうなずいた。


 サトミは知らないだろうが、オレはあいつの言った住所になにがあるのかを知っている。


 そこは墓地だ。


 わざわざ足を運ぶまでもなく、父はオレに答えを与えたのだ。


 サトミはすでに死んでいるという、実にありきたりな結論を。

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