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「うーん……」



 なんにも思いつかなかった。


 いつまでも校舎にいることはできないので、河村さんと一緒に下校はしている。


 肩を並べて歩けるのは素直に嬉しいが、その喜びに浸っていることができないのは悲しい。


 どうしたものか。


 七年前の我が家へと帰るわけにはいかない。


 そこにはまだ小学生の自分と、今よりも若い両親が暮らしているはずだ。

 乱入はできないだろう。



「大丈夫なの?」



 河村さんに心配そうな顔で覗き込まれると「困り果てています」とは言えない。

 見栄を張りたいのが男心というものだ。



「大丈夫。ほら、結構お金持ってるし」



 と財布を出してお札を見せる。


 なんと今は六千円も持っている。

 ゲームソフトだって買えちゃう大金だ。



「なにそれ? 偽札?」


「え? 野口英世と樋口一葉なんだけど……」


「千円と五千円って、夏目漱石と新渡戸稲造でしょ? 違うの?」


「おぉ、そうだった……」



 凛々しい偉人たちの顔を見て思い出す。


 そういえば、紙幣のデザインが七年前と今では違うのか。



「未来だとデザインが違うっていうなら、二千円札は? あれも変わったの?」


「変わってないだろうけど、持ってない。最近はあんまり見たことないし」


「そうなんだ。あ、五百円玉なら銀色のと金色の二種類使えると思うわよ。ほら」



 自動販売機の硬貨投入口に「どちらも使えます」とシールが貼ってある。



「でも小銭そんなに持ってないんだよね……」



 未来で旧紙幣を使うのは問題ない。

 それこそ伊藤博文のものでも、銀行に行けば使えるようにしてもらえるだろう。


 しかし、過去で新紙幣を使うのは問題がありすぎる。


 小銭はそれほどないし、これでは財布を持っていても無一文と同じだ。


 さらに問題なのは俺が制服姿だということだろう。


 警察官が巡回しているというのもあまり見ないが、もし補導されれば厄介なことになる。



「おぉ、この困り方はなんだか未来人っぽいぞ」


「またバカなことを考えてたんでしょう?」



 呆れたように河村さんがため息をつく。

 そんな表情もきれいだ。



「危機感がないのね、ホント」


「いや、あるある」


「じゃあどうするつもりなの?」


「えっとほら、公園で野宿とか。川まで行って橋の下? えぇっと、他には……」


「うち」


「え?」


「うち、来る?」


「……え?」



 二度も聞き返すと、再び河村さんは深々とため息をついた。



 ***



「お、おじゃましまーす」



 うなれ、俺の肺胞!


 河村家の空気を可能なかぎり吸い込み、我が血液とするのだ!


 後ろに河村さんがいなかったら、そう叫んで深呼吸をしそうなくらい俺は舞い上がっていた。


 元の時間に戻れなくなったのはとんだ不運だと思っていたけど、それ以上のとんでもない幸福に恵まれてしまった。

 たまにはつまづいてみるのもいいかもしれない。


 マンションの一室だった河村さんの家は、しんと静まり返っている。

 電気もついていない。



「あれ、家族の人は?」


「いないわよ。けど、変なことは考えないでよね」


「はい」


「単純に同情してるんだから。あとは厚いほうの厚意」


「はい」



 そうは言われても、無駄に緊張するのが男子高校生というのものなのだけれど。



「じゃあ布団出してくからわ」


「あ、手伝います」


「なんで敬語?」



 押し入れから出された布団一式を受け取り、リビングに敷く。


 当然だが、河村さんの部屋に入る機会はなさそうだ。

 いや、全然いいんだけど。



「着替えは父ので我慢して」



 河村さんはテキパキとしていて、こちらに遠慮する暇も与えない。



「じゃあ、あたしお風呂入ってくるから」


「え」


「えってなによ。一番風呂は家主の特権でしょ」


「い、いえ……ごゆっくり」



 あまりにも警戒心が薄くはなかろうか。


 信用されてるの?

 それとも異性として見られていないの?


 俺が悩んでいる間に河村さんは脱衣所らしき扉の向こうに消えてしまう。


 それから水音。


 襲い来るのはあらゆる雑念。


 口にするのもはばかられる桃色な妄想から、よこしまな考えまで濁流として押し寄せてくる。



「無だ。無になるのだ、俺……」



 あとはほら、わりと深刻な状況なんだから悲観的な考えとかでもだえ苦しめばいい。


 ……うん、ダメだ。

 河村さんのことしか考えられない。



「なんで座禅してんの?」


「はっ!」



 いつの間にか上がってきた河村さんは、当たり前だが制服姿ではない。


 シャツにジャージというラフな服装に、濡れた髪をバスタオルで拭いている。

 そのどちらも視覚的に頭をクラクラさせる。


 無防備というかなんというか。



「鼻血出そう」


「なんで? あたしちゃんと服着てるのに?」


「河村さんは男子の浅さを知らないな」



 好きな女の子の姿なら、夏服でも冬服でもクラクラくるものだ。



「バカなこと言ってないで。さっさと入ってよね」


「はい」



 悶絶しながらお湯をいただき、上がってくると台所に立った河村さんが「晩ご飯の用意できてるよ」と言う。

 しかもエプロン姿である。



「なんて顔してんのよ」


「いや、こんなに幸運でいいんだろうかと思って。死ぬんじゃないだろうか俺」


「ただのインスタントラーメンよ、これ」



 苦笑しながら河村さんと向かい合って夕食をとる。


 時間はもう七時になっていた。



「ご両親、いつごろ帰ってくるの?」


「父も母も最近はずっと外泊よ。日中に着替えを取りに帰ってくることはあるけど、こんな時間に帰ってくることはないわ」


「忙しいんだ」


「どうだか」



 その口調には、どこか軽蔑の意が感じられる。



「あの人たちはお互いに顔を合わせたくないのよ。きっとあたしにも会いたくないんだわ。うちの両親ね、離婚する予定みたいよ」


「みたいって……」


「よくあるでしょ? 冷静に話し合うために、それぞれ顔を合わせないようにしてるって感じよ。あたしも、どっちについていくか決めておいてとは言われたけどね」



 あっけらかんと河村さんは打ち明ける。


 想像できないほど突飛な話ではない。

 けれど、なんて言ったらいいのかわからなかった。



「やだ、暗い顔しないでよ。まだ離婚しちゃったわけじゃない。だから希望はあるのよ。あたしたちの作っているアニメにね」


「アニメに?」


「そう。うちの両親、大学で一緒にアニメを作ったのが馴れ初めなんだって。で、思ったのよ。あたしが作った作品を見せたら、離婚するなんて話なくなるんじゃないかって。もう少しお互い冷静になれるんじゃないかって」



 合点がいった。

 だから河村さんは急いでいたんだ。


 両親が離婚を決めてしまう前に、思い直させる手段としてアニメを作りたかったから。


 河村さんが使っている様々な道具は、両親がこの家に置き去ったものなのだろう。



「実は今週末、家族で話し合う予定なの。そのときに絵コンテを見せるわ」


「うまくいくといいね」


「大丈夫よ。ねぇ、渡瀬くん。あなたが未来人でもなんでも、協力してくれるっていうのは嬉しかったわ」


「あんまり役に立ってないと思うけど」


「ううん、誰かが手伝ってくれるっていうだけで嬉しいものなの。ありがとう」



 河村さんが微笑む。

 素直に感謝されるのはひどく嬉しかった。



「河村さん。面白い作品を作ろう」


「当然。でも、そのためにも早いところ元の時間に戻れるようになってよね」



 まったくそのとおりだ。

 早いところ未来に帰らないと。


 麻倉や田辺たちに迷惑がかかっていないといいけれど。

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