6/14 B-9

 六月十四日、木曜日。


 泳ぐ場所が川になっても、オレに与えられた条件は同じだった。


 着衣のまま泳ぐこと。

 向こう岸まで泳ぎつくこと。


 速度や泳法に指定はなく、ついでに言えば目的だってよくわからない。


 昨夜、サトミの指導のもと自室で「逆アオリ」という泳ぎ方を練習した。

 姿勢や足の動かし方など、かなり厳しい指導があっただけに上達したような気もしている。


 これでもう完璧だ、と川に飛び込んだのだが。



「きつい!」



 流れが意外ときつい!


 外から眺めているだけでは、大したことないと思っていたが実際に身を浸してみると思いのほか影響される。


 視界が横に流れていく。

 流れに逆らって泳ごうとすると、前進しないし、前進しようとするとどんどんと押し流されてしまう。



「あ、麻倉さん!」


「ダメだな、こりゃ」



 ざぶん、と誰かが飛び込む音がして、それが自称父だと気づいたのは遅れてからだった。


 慣れた様子で逆アオリの泳法で近づいてくると、オレの襟首を掴んで岸まで引き上げてくれる。

 オレがまだおぼつかないというのに、やけに上手で、腹が立つ。



「オサム、お前昨日の疲れが抜けてないんだろ」


「はぁ、はぁ……そう安々と回復するかよ」



 仰向けになって、全身で息をする。


 筋肉の疲労も、酸素の消耗も甚大だ。



「若いのに情けないな」


「あんたは泳げるんだな」


「これくらい普通だ」



 逆アオリ、という泳法がそこまでメジャーなものだとは知らなかった。



「今日はこれくらいにしとけ。また次でいいだろ」


「いや、それは……」


「それとも、なんか急ぐ理由があるのか?」



 急ぐ理由。

 あらためて尋ねられると……思いつかない。


 早いところサトミをどうにかしてやりたいと思っていたが、一応父と名乗る不審者という手がかりを得た。

 こいつから情報を聞き出すことを焦る理由はないのかもしれない。



「じゃあまたな」



 それだけ言って、父の足音が遠ざかっていく。



「今日はおやすみにされてはどうですか? 近頃、がんばりすぎですし」


「そうだなぁ……そうするか」



 よっと身体を起こす。

 水を吸った体操服を脱ぐのも慣れた。


 橋の下で手早く着替えたあと、学校ではなくのっそりと足を伸ばした。



「どこへ行くんですか?」


「七年前ならたしかこのへんに……あった」



 立ち並ぶ自動販売機に挟まれた、普通の民家。

 いや、少し古ぼけた民家の入り口はまだ開け放たれている。


 この前、というか今より七年先で通ったときはシャッターが閉まっていた。



「ここ、なんですか?」


「知らないか? 駄菓子屋だよ」



 耳は遠いが、目つきの鋭いおばあさんが一人でやっている駄菓子屋だ。


 小学生の頃、渡瀬や田辺と来たことがある。

 五百円もあれば豪遊できるので、小学生のオレでもささやかな金持ち気分が味わえたものだ。


 部室にいる渡瀬たちや、元の時間で待っている田辺にもおみやげとして買っていくか。


 五百円玉一つで甘いものや辛いものを適当に購入して外に出る。

 学校に戻ろうとして、足を止めた。



「さっきの硬貨はなんですか?」


「五百円玉だよ。覚えてないのか? まぁ、お嬢様なら見たことないか」


「いえ、もっと違う色だったような……記憶違いかもしれません。それより、まだ学校に戻らないんですか?」


「ま、もう少し二人きりにしてやってもいいだろ」



 それくらいしかあいつの恋の応援ができない。


 自動販売機の横のベンチに座って、麩菓子の包みをやぶった。


 そこでふと気づく。



「そういえば、サトミ。お前なにも食べてないよな」


「あ、はい。お腹がすきませんので」


「でもなぁ」



 今さらのように気になる。

 いや、今まで少し無神経すぎたのだ。


 なにも食べれない少女の前で、オレはむしゃむしゃと無遠慮にものを食ってきて、今もまたお菓子を頬張ろうとしている。



「箸を立てたら食べられたりするかもしれないぞ。ほら、お供えとかでやるだろう」


「それは……どうでしょう」


「よし、ちょっと待ってろ」



 袋から水飴を絡ませるための割り箸を取り出す。

 そこに水飴を垂らして、練ってみた。



「これでも箸を立てたことになるはず」


「ちょっと強引なような……」


「まぁいいから手を出してみろ」


「わかりました」



 すっと、サトミが手を伸ばしてくる。


 なにも触れられないその手が、水飴に触れるか触れないかというところにきた瞬間。


 すっと懐中電灯が影を消すように、サトミの手首から先が消えた。


 けれど、それはすぐに元に戻り、サトミの透けた手のひらは割り箸をすり抜ける。


 呆然としていたオレは、水飴が垂れて地面に落ちることでようやく我に返る。


 なにも言えなかった。

 オレたちはお互いに、今起こった現象を多分正しく理解している。



「あはは……私、なにもしなくてもそのうち消えてしまいそうですね」



 少しだけ気にはなっていたのだ。


 サトミの身体が徐々に薄くなっているような気がしていた。

 そして今は身体の一部が完全に消えた。


 けれどサトミは笑った。


 怖いだろうに、決して泣きもせず。


 今の現象は、ある意味でオレたちの行動をこれ以上ないくらいに否定してくれている。


 オレはサトミを消すために、サトミは自分が生きているとするために、こうして過去に来ている。

 けれど今起こったのはそれを無意味だと断じている。


 オレはなんの努力をせずとも平穏な日常を取り戻せるし、サトミはどれだけ生霊だと主張してもいずれは消えてしまう。


 これはきっと喜ぶべきことなのだろうと思った。


 思い込もうとした。

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