6/20 B-13

 悪夢を見た。


 父を名乗る不審者と妙な話をしたせいかもしれない。


 夢の中のオレは小さな子どもで、その日は夏祭りの日だった。

 そしてオレの前には濁った川が暴れ狂う獣のように、激しい勢いで流れている。


 そこで小さな女の子が溺れ死ぬのだ。

 それをオレはなにもできずに見ている。


 とんでもない悪夢だった。


 目が覚めても鮮烈に焼きついているその悪夢を振り払おうと、今日もいつもどおりの一日をこころがけた。


 早朝のジョギング、できる範囲の家事。登校してからは授業を頭に叩き込み、昼食もきちんと胃に詰め込んで、家族や友人とも積極的に会話をした。


 そうしていれば時間が引き伸ばされて、放課後がこなくなると信じたかった。


 それでも放課後はやってきて、オレは結局七年前に来てしまった。



「麻倉さん」


「わかってる。あの不審者が言った住所を調べてみようって言うんだろ。でもサトミ、冷静になれよ。あいつが正しい情報を言ったかどうかなんてわからないんだ。大体、人に川で泳げなんて非常識な人間が言うことなんてアテに……」


「麻倉さん」



 一度目よりも強い調子で名前を呼ばれて、オレは口を閉ざす。


 自分で言っていてもわかっている。


 バカげた言い訳だ。

 あまりにもバカげている。

 そのことをサトミに糾弾されても仕方がない。



「ありがとうございます」



 予想に反して、サトミはオレに頭を下げた。



「私のことを思って、私のことを考えて、ごまかそうとしてくださっているんですよね」


「違う」


「でも、もういいんです。覚悟はできていますから。私はどんな真実が待っていても、それを受け入れます」


「オレは……」



 ただ臆病なだけだ。


 サトミのためを思っているわけじゃない。

 オレがその真実を知るだけの覚悟ができていないのだ。


 こんな幼い少女に、自分の死を受け入れる覚悟をさせるなんてことしたくはなかった。


 だが悔やむことすらオレにはできない。



「……わかった」



 ゆっくりと立ち上がる。


 せめて、その覚悟に寄り添うことをしてみよう。



「行こう、サトミ」


「はい、お願いします」



 サトミはもう一度、オレに深々と頭を下げた。


 父親が告げた住所をメモすることはなかったが、忘れることはなかった。


 道中、サトミはオレに明るい話題を話しかけ続けていた。


 弟の弘のこと、渡瀬と河村の恋について、田辺の実験について。


 オレはそれに返事をしつつ、それでもこれからのことを思うと笑う気にはなれなかった。


 たどりついたのは寺。

 裏が墓地になっているところだ。



「思い……出してきました」



 サトミは呆然とつぶやいた。



「父や母と……私はここに、来たことがあります」



 その思い出だけなら、サトミは死んでいないのかもしれない。

 あまりにも希望的な考えだが、振り切ることはできない。


 規則的に並べられた墓石の間を通り抜けて歩いて行く。



「私は……そうです、私は」



 サトミはなにかを一心に思い出そうとしていて、口数は減り、視線はまっすぐと前に向けられたままだ。



「止まってください、麻倉さん」



 言われたとおり、一つの墓石の前で足を止める。


 文字をすべて正確に読み取ることはできないが、井上という家の墓石のようだった。



「思い出しました」



 墓石を見下ろして、サトミが言った。



「私はもう死んでいたんです。今よりももっと前、あの夏祭りの日に川で――」



 言葉が途切れる。

 サトミの身体が薄まり、消え失せ、また戻ってくる。



「だから、もう……」



 きゅっと引き結ばれた口元や、なにかをこらえるように見開かれた目。

 言葉の一部は聞き取れなかったが、そんなことはどうでもいい。



「まだそうと決まったわけじゃないだろ。お寺の住職に尋ねてみるまではまだ」


「いいえ、麻倉さん。もういいんです。私も消えかけていますし」



 そう言ったとき、またサトミの手が消えていた。

 煙が空気へ溶けるように、サトミが風景に消えていく。



「もう十分です。今まで――」



 言葉は不自然に途切れる。


 サトミは、オレの前から消え失せてしまった。


 今までも何度かあったことだ。


 すぐにまた全身が戻ってくる。


 そうしたら励ましの言葉をかけて、新しい方法を探そう。

 今、死んでいるのならもっと昔へさかのぼる方法を探せばいい。

 そうだ、それだけのことだろう。


 だが、いくら待ってもサトミはオレの前に再び現れてはくれなかった。

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