6/6 B-1
オレは規則正しい生活を心がけている。
帰宅部として正しく、四時には下校をするし、帰宅後は主に家事にいそしむ。
風呂の掃除をしたり、アイロンをかけたり、食事の用意をしたり、やるべきことは毎日たくさんあるのだ。
母が看護師なので夜勤のさいには、可能かぎりの家事は手伝うことにしている。
うちは母子家庭なので、できるだけ母をサポートするのは特に必要なことだ。
そうでなくとも毎日掃除をするのはいいことだろう。
そして夜、オレは遅くとも十時には布団に入る。
毎朝四時に起きるからだ。
早朝にもやるべきことは多い。
今日も折り目正しく、すべてのことをこなし布団に入る。
完璧だ。
心地よい満足感と共にまぶたを閉じる。
「……ん?」
普段ならすぐに眠れるはずだが、そのときは妙な感じがした。
ただの寝苦しさとは異なる、ぬめりとした空気が肌にからみつくような違和感。
もう六月だというのに、鳥肌が立つような冷気を感じる。
自分の部屋が急に霊安室に変わってしまったかのような不気味さがあった。
身体の末端がしびれる。
その感覚に耐え切れず、オレは薄く目を開けた。
電気を消した部屋に、ぼんやりと人が浮かんでいる。
どう見ても、幼い女の子だ。
身長は一メートルあるかないかという小柄な少女で、顔つきから見ても小学生の弟よりも年下だろう。
浮かんでいるその子はしげしげとオレの顔をのぞきこんでいた。
寝ぼけているのだろうか、オレは。
無視しようと、強引に目を閉じてみるが肌寒さが消えない。
「……えぇい!」
うっとうしくなり、布団を蹴飛ばし起き上がる。
幻なら完璧に目を覚ませば消える。
一度水でも飲んでから寝なおせばいい。
「わっ」
急にオレが動いたことに驚いたのか、浮いていた女の子が後ろに下がった。
足を使った動きではなく、空中をすべるようにしての移動である。
オレは上体を起こしたままの姿勢で、しばしその幻をにらんだ。
そうしているうちに消えると思ったのだ。
それなのに少女は依然として消えず、小さな手で薄い胸をなでおろした。
「あー、びっくりした」
「いや、びっくりされても」
「えっ」
「えっ」
驚かれたことに驚く。
意思疎通ができてしまっている。
「私が見えるんですか?」
いかにも幽霊っぽい女の子が、幽霊っぽいことを言う。
「なんて月並みな夢だ。よし寝よう」
「ちょ、ちょっと待ってください。私、浮いてますよね?」
「浮いてるな。物理的にも、場の空気からも浮いてる」
「どうしてなんでしょう?」
「知るわけがない」
明日も早いんだから、つまらない夢を見ている場合ではない。
水を飲みに行く気も失せた。
もぞもぞと布団にもぐりなおす。
「あ、ちょっと待って。話を聞いてください。ちゃんとこっちを見てください」
少女がオレの周りをぐるりと回る。
年のわりには、しっかりしたしゃべり方をする子だ。
昔の自分か、隣室の弟に見習わせたい。
「ったく、なんだよもう」
「ちゃんと私のことを見てください」
ちゃんと見ろと言われたので浮いている少女を観察してみる。
前髪をまっすぐに切りそろえ、後ろの髪は二つの三つ編みに結ってある。
肌は病的なくらい白い。
まるで透き通るような白さとはこういうことを――
「ん?」
薄いピンクのパジャマを着た身体ごしに、部屋の天井が見えた。
透明度は低く、かすかに見える程度だがたしかに透けている。
「おい、本当に透けてるじゃねぇか。冗談じゃないぞ」
「え、服がですか!」
「そんなイベントじゃねぇよ! 身体がだよ!」
少女が両手で自分を抱くようにして身体を隠す。
ませた行動だが、眠いせいかイライラする。
「おい。うっせぇよ、兄貴。開けろ、こら」
声と共にどんどん、と扉が叩かれる。
隣の部屋にいる弟が怒っているのだろう。
「あぁ、悪い」
布団から出てドアを開けると案の定、不機嫌そうな弘がいた。
普段は物分かりのいい静かな弟だが、眠いときの機嫌の悪さは我が家随一の逸材である。
「もうマジでやめてくれる……夜も遅いんだからさ、ほらさ、もうさ」
「本当に悪かった。ところで弘、オレの部屋になにかいるのが見えないか?」
「ゴキブリでも出たわけ? 特になんかいるようには見えないけど」
オレのすぐ後ろでふわふわと透けている女の子は本当に見えていないようだ。
なら、やっぱり夢か。
「ごめん、弘。悪い夢を見て取り乱したんだ。ごめんごめん」
「もうさ……ほんとうにね……」
目をこすりつつ、弟の弘が自分の部屋に戻っていく。
ふぅと息を吐いた。
さて、しっかり寝よう。
「あの」
「さー、寝るぞ」
透けたままただよう幻を無視して、布団に戻る。
寝よう、もう絶対に寝よう。
「急に見えなくなってしまわれたんでしょうか。それにしても、これはどういうことなんでしょう?」
幻の少女がぶつぶつと独り言をつぶやく。
それが虫の羽音みたいに、気になって仕方がなくなる。
「もしかして、私……ううん、そんな……でも……」
いや、気にしない気にしない。
「けど、そうでないと説明つかないですよね……なにがどうなって……」
気にしない。
「順番に思い出して……えっと、私は……」
「あー、うっせぇ!」
がばっと起き上がる。
「気になるんだよ、それ! もう、ひとつ小さなことが気になりだすと、色んなことが気になるんだよ! 自分の舌の位置とか、眼球の向きとかさ! あれ、オレどうやって寝てたんだっけ……ってなるんだよ!」
「よ、よくわかりませんが、ごめんなさい」
「おい、こら。開けろ、おい」
また扉が叩かれた。
弘だ。
「だから、うっさいって」
「すいません」
急いで謝る。
さっきよりも弘の表情が険しい。
しかめっ面だ。
「いいかげんにしろよ、クソ兄貴」
「気をつけます、弘さん。本当にすいません。どうぞお眠りください」
弟をなだめてすぐ布団に戻る。
透けてる女の子は、申し訳無さそうに目を伏せていた。
だぁー、と溜息をつく。
さすがに、この子を無視するのは無理そうだ。
「悪いんだけどさ、色々受け入れるのに時間をくれないか。今日はもう夜も遅いし、明日の朝に話は聞くよ」
「あ、わかりました。おやすみなさい」
「はい、おやすみ」
すごく物分かりのいい子だった。
混乱した頭で挨拶を返して、布団に入る。
たちの悪い夢はこれで終わりだと、そう思っていた。
***
「おはようございます」
六月六日、水曜日。
のぼりはじめたばかりの朝日を受けて、女の子が礼儀正しくお辞儀をした。
けれどその両手両足は地面から離れて浮いている。
身体は昨日ほど透けていないため、人形が浮かんでいるような、
違和感にあふれる自室になっていた。
「冗談きついぞ、おい」
さっき止めたばかりの目覚まし時計で、自分の頭を小突いてみた。
痛いし、浮いている女の子には変な目で見られた。
踏んだり蹴ったりだ。
一晩それなりに眠って、まだ消えない幻なんてあるもんなのか。
「約束通り、話を聞いてくれますよね?」
「あー、うん……」
部屋を出て、廊下をぺたぺたと歩くとすぐそばをふわふわと女の子がついてくる。
まるで風船のようだ。
オレがひもを持っているとすれば、だけど。
「私、どうしてこうなっているのかわからないんです」
洗面所で顔を洗う。
鏡を見れば、背後にいるはずの女の子はうつっていない。
けれど声は続く。
「気がつくといつの間にかこう……浮いちゃってて」
「ほぉ、全然わからん」
「私もわかりません。なので周りの人に話しかけてみたんですが、誰も反応してくれませんでした。それで、話を聞いてくれる人を探していたら……いつの間にかここに。あなたには私のことが見えてるんですよね」
「まぁ、視力はそこそこいいからな」
「いえ、そういう意味ではなくて……信じられないかもしれませんが、私はどうやら幽霊みたいな状態のようなんです」
振り返れば、まだ女の子は浮いている。
「オレもそろそろ現実逃避が苦しくなってきたところだ。認めるよ、オレの幻じゃなくて幽霊だってこと」
霊感が強いというつもりはなかったんだが、こういうことも世の中にはあるのかもしれない。
友人の田辺が聞いたら喜びそうな状況だ。
「さて、じゃあ次はこの状況をどうするかだな」
「なにか案があるんですか?」
「とりあえず米をとぐのが先かな。で、次に洗濯だ」
「私についてじゃないんですね」
「幽霊が見えるからって、弟の朝飯をなくすわけにはいかないだろ」
台所で米をとぎ、炊飯器のスイッチを入れる。
これで後から目覚めてくる母と弟の朝食は心配いらない。
次に家族の服を洗濯機に放り込み、稼働させる。
去年の誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントとお年玉を合算して、静音タイプの洗濯機を買ってもらったため、早朝でも気兼ねなく選択できるのは幸せだ。
「私、結構自分の状態にびっくりしているんですけど、あなたはあまり驚いていないんですね」
「いや、混乱してる。今は日常業務によって、己の冷静さを取り戻している最中だ」
幽霊に取り憑かれたことによる弊害は今のところない。
金縛りも起こらなかったし、呪いを受けている感じもしない。
せいぜい周囲を少女がフワフワしていることだけだ。
だからあまりあわてずに、家事をしながらじっくりと対処法を考えることができる。
さて、洗濯機が止まるまでの時間を利用してジョギングへ出かけよう。
毎日、三十分ほど早朝の町を走るのは、良い気分転換になる。
部屋に引っ込んで着替えようと、自分の服に手をかけたときに気がついた。
「あの、悪いんだけど着替えるから、少し離れてくれないか?」
オレがなにをしている間でも、女の子はほぼぴったりとついてきていた。
パーソナルスペースを常時侵されている居心地の悪さにも耐えてきたが、さすがに着替えとなると困る。
我慢してきたけどそろそろトイレにも行きたいし。
「ごめんなさい。なぜかこれより遠くへは行けなくなって」
女の子は泳ぐように空気を手でかき足で蹴って離れようとするが、ひもに縛られた風船のようにオレのほうへと戻ってくる。
最大距離はオレが片腕を伸ばした長さよりも短い。
「で、でも、私はあっち向いてますから! 大丈夫です!」
少女はぐっと両手を握りしめ、力を込めて言う。
「うん、そうだな……」
少女に高校生男子がトイレ、風呂、着替え、と宣言し続ける光景って想像しただけでなんかつらい。
初めて幽霊に取り憑かれる弊害を感じた。
朝日がのぼりきるよりも早く、今日最初のため息がオレの口からもれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます