6/6 B-2
よほど学校を休もうかと思った。
けれど、いつもどおり過ごすと決めた以上はそのようにする。
趣味である早朝のジョギングもしっかり走ったし、弟に朝食も作った。
母の出勤は遅番だったはずなので、今日はは少し遅めまで寝かせておく。
洗濯物を干して、洗い物も済ませて、三十分の余裕を持って登校した。
最高にいつもどおりの水曜日だ。
いつもと違うのは、オレの日常すべてをパジャマ姿の女の子に見られているということだけ。
それだけなのだが、それが一番の問題でもあった。
この子はオレに気をつかっているようで、ずっと黙っている。
ただし好奇心旺盛な視線は、オレの一挙手一投足にそそがれていた。
そのせいで落ち着かない。
目が覚めて四時間が経とうとしている午前八時現在。
そろそろオレもあきらめてきた。
この状況を受け入れようという気にもなってくる。
さいわい、始業三十分前の教室には生徒がいない。
部活の朝練はまだ続いているだろうし、帰宅部や文化部の生徒は用もなくこんな早く教室に来ないからだ。
「あのさ……」
「麻倉!」
意を決してこちらから女の子に話しかけようとしたとき、廊下を走って飛び込むようにして渡瀬がやってきた。
あいつは不規則を絵に描いたような男なので、学校へ来る時間にはバラつきがある。
きっと今日はたまたま早めに目が覚めたのだろう。
渡瀬は窓際にある自分の席にカバンを放り投げると、オレの前までやってきた。
「聞いてくれ! 昨日、放課後に高垣先生と会ってさ!」
「高垣……ああ、教育実習生の」
高垣先生というのは二日前の月曜日からこの学校に着ている女子大生だ。
長い髪をポニーテールにまとめていることくらいは思い出せるが、会話をした記憶はない。
印象としては「若い先生だなぁ」というくらいだ。
「それで映研の部室からイスを運ぶのを手伝うことになったんだよ」
「そりゃ接点ができて良かったな」
「いや、それはそうなんだけど。映研って廃部になってるはずだろ? なのに、部室にはすっごい美人がいたんだよ!」
「美人って、どんな? お前、つい二日前には高垣さんが美人って言ってただろ」
渡瀬が一目惚れをした、と聞いたのは長い付き合いの中で三度目だ。
一度目は小学生のとき、二度目は例の高垣先生だった。
また何年か間があくかと思っていたが、もう三度目とは。
「高垣先生も美人だけど、映研に居たのはこう……なんていうかさ、ブラックホールみたいな美人なんだよ」
「ブラックホールみたいな美人……ダメだ、悪人しか想像できない」
「でさ、吸い込まれるように一目惚れしたんだ」
「ブラックホールに吸い込まれるって比喩は恋に落ちる雰囲気じゃないぞ」
「でも、実は古い方の鍵では扉は開かないはずだったんだよ」
急に話がぶっ飛んだ。
興奮して話すときによくあることだ。
「で、正しい鍵を使って開けたらその子はいないし、部屋は荷物とホコリまみれで……なんか不思議じゃない?」
「んー」
話が飛んだ部分は自力で埋めようと試みる。
映研の部室には二つの鍵穴がある、ということなのだろう。
そして古い鍵と新しい鍵がある。
で、開かないはずの古い鍵で渡瀬は扉を開けた。
その先にはブラックホール美人がいて、吸い込まれる……もとい、一目惚れした。
それから一度部屋を出て、今度は新しいほうの鍵で扉を開けると、ブラックホール美人はいなくなっていた。
まぁこんなところだろう。
この話における不思議ポイントは二つ。
開かないはずの古い鍵で扉が開いたこと。
そしてブラックホール美人が消えたこと。
たしかに不思議ではあるがそんなことではもう動じない。
オレは傍らに視線を向ける。
そこには今も三つ編みの少女が浮かんでいて、渡瀬の不思議トークを真面目な顔で聞いていた。
一方の渡瀬はどうやら弟の弘と同じく、少女のことが見えていないらしい。
幽霊の少女から渡瀬に視線を戻して、オレは言った。
「それは不思議だな。そうそう、オレにも同じくらい不思議なことが起きたんだ」
「え、そうなの?」
「ああ。昨日からどうも幽霊に取り憑かれたみたいでな」
少女が不思議そうにこっちを見る。
お前のことだよ、と言いたくなったのをこらえた。
「幽霊っていうと、あの髪が伸びたり、口が裂けたりするやつ?」
「違うな、小さい女の子が浮いてる」
「座敷わらし?」
「いや、和装じゃない。普通のパジャマ姿。それに今のところご利益もない。ただ浮いているだけだ」
「今も浮いてるってこと?」
「もちろん。このへんにいるぞ」
オレが少女を指差すと、彼女は困ったような笑みを浮かべる。
渡瀬はマヌケな顔で少し黙った。
こいつにはオレがなにもない場所を指差しているように見えているのだろう。
渡瀬はたっぷり十秒は黙ってから、首をかしげた。
「麻倉、ロリコンこじらせたの?」
ああ、やっぱりこいつに話してもどうにかなるわけなかったのだ。
そもそもこじらせるって、こいつの中でオレは元からロリコンだったのかと問いただしたくなる。
「ブラックホール女に惚れるやつには、言われたくない」
「そりゃそうかもね」
俺たちは黙って目を合わせて、はぁ、とほぼ同時にため息をつく。
向こうも大変そうだがオレも結構大変なのだ。
そんな光景を幽霊が不思議そうな顔をして眺めていた。
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