第一章 ブラックホール美人/子どもの幽霊
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映研の部室には誰もいないはずだった。
うちの映研はとっくに廃部になったから、とついさっき言われたはずなのに、扉を開けた先には見知らぬ女の子がいた。
「え……?」
不意をつかれて思わず漏れた俺の声に、窓の外を見ていた女の子が振り返る。
薄く開けられた窓から風が吹き込んできて、少女の髪を揺らす。
肩ほどの高さで切りそろえられていた真っ黒の髪に隠された白い首筋が、見え隠れした。
顎は細く、長いまつげに縁取られた目が疑問符を浮かべるようにこちらへ向いている。
夕日の輝きが白く散る、真っ黒で吸い込まれそうな瞳。
なぜか化学の教科書でしか見たことがないブラックホールを連想した。
その子と目が合うと同時に、俺は周囲の景色が塗り替わるような気がした。
なぜか遠い過去から、あるいはずっと未来から、俺はこの人に恋をするのが決まっていたようにさえ思えてくる。
いや、詩的な表現はやめよう。
自覚はあるし経験もある。
端的に言うなら、これは一目惚れだ。
「どうしたの?」
扉の前で棒立ちしている俺を、女の子はいぶかしげに見つめてくる。
「遅めの入部希望者? なんにしても、ノックくらいしてよね」
「あ、ごめん」
俺は初めて入る映研の部室を見回す。
四畳半ほどの大きさの部屋には、大きめの窓が一つグラウンドに面している。
両側の壁には本棚が一つずつ備えられていて、ただでさえ広くない部屋をさらに狭くしていた。
部屋の隅には段ボールやパイプイスがまとめて置かれている。
中央には長机が一つ置かれていて、その上には通学カバンと古い型のノートパソコンがのっている。
どちらも彼女のものだろう。
「この部屋からイスを三脚ほど運んでほしいって、先生に頼まれたんだ」
「なーんだ、そんなこと。わかった、ここにあるやつ持って行っていいわよ」
「では遠慮なく借りていきます」
「あ、手伝おっか?」
「大丈夫」
イスを三脚まとめて抱える。
運動部なら楽勝なんだろうけど、帰宅部の身体には少しきつい。
ちょっとカッコつけたかったから、それくらいは我慢だ。
ガチャガチャとパイプイスを取り出しながら、女の子に話しかける。
「誰もいないって聞いてたから驚いたよ」
「はぁ? 失礼な。あたし一人だけど、映研は今日も元気に活動してるのに」
「そうみたいだね。廃部って教えてくれたのは教育実習の先生だったから、勘違いしてたのかもしれない」
放課後、ぼーっとしていた俺にパイプイスを運ぶようお願いしてきたのは、教育実習の高垣先生だった。
女子大生でもある高垣先生は、とても綺麗な人である。
笑顔はまぶしく、ちょっと緊張した面持ちなのも愛らしい。
腰まで届きそうな長い髪を一つにまとめている後ろ姿は、どこまでも追いかけたくなる魅力にあふれている。
そんな高垣先生に「映研の部室からイスを三脚持ってきてほしい」と頼まれた日にはどんな男子でも二つ返事でどこへでも飛んで行くにきまっている。
少なくとも俺はそうした。
「教育実習生かぁ……じゃあ、しょうがないかもね。ま、部員はあたしだけだし、映研が目立たないっていうのは自覚してるわ。ところで、あなた何年生?」
「申し遅れました。一年四組の
「ふぅん。あたしは河村。隣の三組ね」
三組、よし覚えた。
でも不思議だな。
同じ学年で、しかも隣のクラスなら廊下で一度くらいすれ違っていそうなものだが、そしてその場で恋に落ちていそうなものだが、思い返してみても記憶にない。
ま、お互いに入学してまだ二ヶ月くらいだから顔を知らなくても不思議じゃないか。
「ところで、映画って一人で撮影できるの?」
「普通の映画なら無理ね。でも、映画っていっても色々あって……あ、ドア開けてあげる」
河村さんが俺を追い抜き、扉を開けてくれる。
助かった。
両手でイスを抱えているので、扉を開けるのに苦労しそうだったのだ。
丸いドアノブはどうしても手で掴まないと開けにくい。
イスを抱えたまま、小さい歩幅で俺は廊下に出る。
そこでお礼を言おうと振り返った。
「ありが……」
とう、とまでは言えなかった。
すでに扉が閉まっていたからだ。
俺が出た後すぐに閉めたのだろうか?
だとするとそっけない反応だ。
さっきまでの言動との間に食い違いを感じる。
「渡瀬くん」
んんー? と首をひねっていると廊下の向こうから、スーツ姿の女性が小走りでやってくる。
ポニーテールが揺れるのと同時に、大きい胸がゆさゆさと控えめに上下運動する。
揺れるものに目を惹かれるのは生き物としての本能か。
それとも俺がバカだからなのか。
うちの学校でスーツを着ている先生は、教育実習生しかいない。
思ったとおり、走ってきたのは高垣先生だった。
「ごめんなさい。あたし、鍵を間違えちゃって……部室のドア、開かなかったでしょ?」
「え? 開きましたよ。ほら、パイプイスもここに」
「あれ? おっかしいなぁ。開くはずないのに」
高垣先生は部室の扉に近づく。
たしかに変だとは思ったのだ。
部室の扉には、なぜか二つの鍵穴があった。
一つは丸いドアノブの中心にあるもので、もうひとつはその少し上に取り付けられた普通の鍵穴だ。
高垣先生から渡された鍵は、ドアノブのほうにささった。
今も両手がパイプイスでふさがっているため、それは扉にささったままになっている。
高垣先生がドアノブをひねる。
がっ、と抵抗のある音がして扉は開かない。
「やっぱり開かない」
「変ですね。河村さんが鍵をかけたのかな」
だとしてもドアノブに鍵はさしっぱなしなのだから、開かないはずはないんだけど。
「河村さん?」
「同じ一年生が部室にいたんですよ。映研が廃部っていうのは先生の勘違いだったみたいです」
「そうなの? 元顧問の森本先生から部員がいなくなったって聞いてたんだけど、勘違いしたのかしら。それも開けてみたらわかるわね」
高垣先生はポケットから真新しい鍵を取り出す。
「少し前に、こっちの新しい鍵になったんだって」
そんなことを言いながら、高垣先生がドアノブの上部にある鍵穴に鍵を挿しこむ。
それを回すと、かちゃり、と鍵が開く音がして扉が開いた。
「げほ、げほっ……うわっ、すごく埃っぽい。渡瀬くん、大丈夫だった?」
「埃、ですか?」
「うん、それにやっぱり誰もいないわ。長い間、人が入ってないみたいよ」
「そんなはずは……」
俺はパイプイスを廊下に立てかけ、高垣先生の背後から部屋を覗きこむ。
室内は埃で薄いもやがかかったようになっていた。
扉を開けた拍子に部屋中の埃が舞ったのだろう。さっき入ったときには埃なんて一つも見当たらない綺麗な部屋だったのに。
電気のついていない部屋には無数の段ボール箱が詰め込まれている。
さっきまではカバンとノートパソコンがのっていたはずの机の上にも、段ボールがのせられている。
高垣先生の言うとおり、河村さんの姿もない。
窓はカーテンをされたままで、風も入ってこない。
ということは河村さんが窓から出たとも考えられないし、またそうする理由も思いつかない。
まるで埃や段ボールと入れ替わるようにして、河村さんが消えてしまったかのようだった。
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