第二章 学べ/泳げ
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六月七日の放課後。
一階にある映研の部室前までやってきてからオレはこらえきれずに顔をしかめた。
半信半疑というよりも、九割は疑いの気持ちだ。
朝には斬新だと思えたアイデアも、昼飯を食べる時には「ん?」と疑問に思えてくる。
ましてや放課後ともなると、もはや信用しきれない。
それだけオレが冷静になったということだろう。
サトミは朝からずっと「タイムスリップ、ですか」と子どもながらに大人びた苦笑いを浮かべている。
きっと将来は「男ってバカね」なんてことを言う女子になるんだろうなと思う。
そしてオレたちは今も昔も女子に「バカね」と軽蔑され続ける男たちだ。
多分、未来でもそうだろう。
「で、この鍵を使うわけなんだけど」
古ぼけた鍵を渡瀬はどこか得意気にかかげて見せる。
ふむ、と鍵を観察していた田辺が言った。
「では、おれはここに残る」
「え、どうして?」
田辺は廊下の壁に背をあずけて、視線で映研の扉を示した。
「このタイムスリップには不確定要素が多すぎる。どうして過去へ行けるのか、またこちらへ戻ってくるためにはどのような条件が必要なのか。そういったことがまったくわかっていない以上、事情を知っている人間が一人は残ったほうがなにかと便利だろう」
「たしかに一理あるが、意外だな」
思わずオレは口を挟んでいた。
オカルト趣味でSF好きの田辺が、目の前でおこなわれるタイムスリップに参加しないとは思っていなかった。
しかもタイムマシンといえば、長年の悲願のはずなのに。
「タイムスリップって言えば、田辺が一番に飛びつきそうだと思ってた」
「もちろん大いに興味がある。しかし、おれは結果だけが欲しいわけではない。過程と理論を解き明かし、確率させてこその研究だ」
「偶然手に入ったタイムマシンは使わないってことか」
「そういうことだ。もちろん観察はさせてもらうがな。それで渡瀬、その鍵を使うのか?」
「うん、ドアノブにさすこの古い鍵を使うんだ」
「なるほど。映研の扉の鍵は二つあるんだな」
田辺は手にしたメモ帳にペンを走らせる。
一見、優等生っぽい外見をした田辺だが字の汚さはトップクラスだ。
ミミズがのたくったような文字は、少なくともオレには解読できない。
「じゃあ麻倉、行こう」
がちゃり、と渡瀬が扉を開ける。
普通のことだ。
何の変哲もない。
これでタイムスリップか?
エンターテイメント性に欠ける仕掛けだ。
扉が閉まる前にオレも渡瀬に続いて敷居をまたぐ。
奥にはたしかに人がいた。
女子だ。
彼女が噂のブラックホール美人なんだろう。
たしかに整った顔立ちをしているとは思うが、一目惚れまではしない。
意外と綺麗に整頓された部屋にいる、ブラックホール美人がオレたちを見た。
「あ、また来たのね。そっちは同じ未来人?」
なにやら向こうはすっかりタイムスリップを受け入れているようだ。
これには渡瀬も意外だったようで、目を丸くしている。
「タイムスリップ、信じてくれるの?」
「ま、目の前で二度も消えられたらね」
そう言って、女は肩をすくめた。
目の前で消えるとはどういうことだろう。
「渡瀬、お前そんなことできたのか?」
「ううん。あ、でも背中を押されたわけだから……たしかに目の前で消えたことになるのかもしれない」
この扉がたしかに過去へ通じているというなら、そうなのだろう。
「それと、調べてみたの。一年四組に渡瀬なんて生徒はいなかった。多分、そっちでもあたしはいなかったんじゃない?」
「うん、調べてないけどそうだと思う」
「そこは調べておけよ」
「ほんと間が抜けてる」
ブラックホール美人もオレに同感だったらしく、呆れた顔をした。
「それで、そっちの無骨な感じの未来人も映研を手伝ってくれるわけ?」
無骨な感じの未来人っていうのはオレのことなんだろう。
「紹介するよ。こいつは麻倉。一応、別件でタイムスリップしてきたんだけど、それが一段落したら映画作りも手伝ってくれるって。ちなみに映画に関しては俺と同じでド素人」
「よろしくどうぞ」
「よ、よろしくお願いします」
軽く会釈をすると、隣で浮かんでいるサトミも綺麗に頭を下げた。
「こっちは河村さん。七年前の映研部長さんです」
「どうぞよろしく」
噂のブラックホール美人は冗談めかしてお辞儀をしてくれる。
「こっちで用があるっていうのは、未来人的ななにかなの? 歴史の修正、みたいな」
「いや、もっと個人的な事情だ。とにかく、ちょっと出かけさせてもらう」
幽霊を、幽霊でなくするためにやってきた……なんて説明するのが面倒だ。
詮索される前に退散しよう。
「待った、麻倉」
部屋を出ようと踵を返したところで渡瀬に呼び止められる。
「扉から出たら、元の時間に帰っちゃうかもしれない」
「なるほど、そりゃそうだ」
ドアノブに伸ばしていた手を引っ込める。
扉から出られないのだとすれば選択肢はひとつしかない。
狭い部屋を横切り、扉とは反対側へと向かう。
「え? ちょっと、ちょっとなにしてんのよ!」
「窓から出るだけだ。迷惑はかけないよ」
部屋の奥にある窓をがらりと開け、そこからグラウンドに降りた。
映研の部室が一階にあることを初めて感謝する気になる。
靴の問題は気にしないことにしよう。
本当にここが過去なら下駄箱にオレの靴はないわけだし。
「麻倉、完全下校までには戻ってくるんだよ」
「わかってる。部室の扉が使えなくなるといけないからな。お前もがんばれ」
窓越しに警告してくる渡瀬へ雑に手を振って、グラウンドのはずれにある裏門へと向かう。
七年前。
疑うつもりはないが、今のところ実感はまったくない。
グラウンドで走り回っている運動部の顔は見覚えがないものばかりだが、それだけで七年前とは信じきれない。
振り返って見た校舎にも変わった様子がない。
「なぁ。七年前って感じ、するか?」
話しかけてみるが、答えが返ってこない。
なにか気になることでもあったのかとサトミを見上げると、あわてたように返事があった。
「わ、私に話しかけてます?」
「独り言にはしたくないな」
「ごめんなさい。さっきまで麻倉さんが他の人と話しているところをずっと見ていたので、わからなくって……」
「ああ、そっか。悪かった、次から名前を呼んでから話しかけることにするよ」
開きっぱなしの裏門から歩道へと出る。
上履きのままだが、わざわざ靴に注目されることはないと信じよう。
「話を戻すけど、ここは七年前ってわかるか?」
「わかりません。本当にそうだったとすれば、今の私はまだ幼いでしょうから」
「そりゃそうだ」
あらためてサトミを観察してみても、詳しい年齢はわからない。
見た目だけなら十歳には届いていそうもない。
背丈も手足も小さく、まるで精巧に作られた人形のようだ。
実はまだ五歳だと言われても、違和感はない。
しかし受け答えや、態度は大人びている。
同級生でもここまで落ち着いて話す女子は少ないだろう。
それがサトミの年齢を一層わかりにくくしている。
横断歩道をわたって、学校の向かい側にあるコンビニへと入った。
これもオレが知る現在と同じ会社のものだ。
定番だがここで年代を確認しよう。
新聞というのが確実だが学生が立ち読みするなら雑誌だろう。
積まれた週刊漫画雑誌を手に取り、裏表紙をめくった。
目次には、懐かしい連載陣が掲載されており今とはレイアウトが違う。
発行日にも間違いなく「二〇〇〇年」と書かれていた。
「懐かしいな。のちに黄金期と尊ばれる連載陣だ」
ページをめくりたくなる欲求に耐えて、なにも買わずにコンビニを出た。
「本当にタイムスリップしたんだなぁ」
車道を走る自動車も、平和な高校も見ただけではあまり変わらないのに、ここは七年前なのだ。
それとも車に詳しければ車種で時代がわかったりするのだろうか?
今この校舎にいる人はオレにとっては七年も先輩だ。
現在だと二十代前半になるのだろう。
そう思うとタイムスリップの不思議を感じる。
「麻倉さん?」
「ああ、ごめん。ぼーっとしてた。この時間でのサトミを見つけないとな」
そこまで言ってから気づく。
サトミが入院している理由を勝手にケガだと思っていたが、病気ということも十分に考えられるだろう。
その場合はどうやって幽霊になることを防げばいいんだ?
「なにが原因で入院してたのかは覚えてないのか?」
「わかりません。病気だったのか、ケガだったのか……」
「記憶喪失だもんなぁ」
頭を抱えてしまう。
仮に今が七年前でなく一年前なら、まだ手を打つことができただろう。
たとえば町内をぐるりと一通り回って探せばいい。
なんなら人相を伝えて探すことだってできないわけじゃない。
そうして見つけたサトミに「病気かケガに気をつけろよ」と警告して終わるだけの話だ。
はたから見れば不審な行動だが、過去での素行にまで気をつけてはいられない。
しかしタイムスリップの原理が解き明かされていない以上、遡る時間を一年刻みで調整するようなことはできない。
「それに、その、さっき言いそびれたんですが、私は自分の年齢も覚えてないんです」
「わかってるよ。七年前に赤ん坊でいればまだよし、もしかしたらまだ生まれていない可能性もあるかもしれないってことだろ」
そもそも今の時間で存在しない場合、サトミになにか働きかけることは不可能だ。
仮に赤ん坊でいてくれたとしても、そしてそれを運良く見つけることができたとしても「七年後の病気やケガに気をつけろ」と本人に警告するわけにもいかない。
あまりにも前途多難すぎる。
田辺のアイデアを聞いた段階では見えていなかった問題が次々と現れてきてしまい、七年前の道路で途方に暮れた。
どこに向かって歩けばいいのかもわからん。
「おぉ、オサムじゃないか」
不意に自分と同じ名前を呼ばれたが、それが自分のことだとは思わない。
なにせここは七年前で、しかも声は男の声だった。
俺を下の名前で呼ぶのは母くらいなので、野太い声で呼ばれるはずもない。
「無視すんなよ、オサム」
男性の声が再び「オサム」と呼んでくる。
そうなってくると呼ばれている「オサム」がどんなやつなのかが気になって、オレは背後を振り向いた。
「よぉ、久しぶり」
車道を挟んだ向こう側で野球帽をかぶった怪しい男が、こちらに手を振っている。
帽子の下の目は明らかにオレへと向けられている。
お約束として自分の背後を確認してみたが、これといって誰もいなかった。
「お知り合いなんですか? あれ……でも、ここって七年前ですよね」
「そうだよな」
疑問を口にするサトミに小声で応える。
「七年前なら、オレはまだ小学生だ。高校生になっているオレを知っている人間なんてのは、一緒にここへ来た渡瀬以外にいるはずがない」
「おい、忘れたのか?」
信号が赤であるため、横断歩道を渡って男がこちらに来ることはできない。
その距離と車の音に負けないようにか、野球帽の男は大きな声で言った。
「オレだよ、オレ。お前の父親だよ」
「……は?」
オレの父親?
とっさに父の姿を思い出そうとするが、全然思い出せない。
オレも記憶喪失になったのかと笑いたくなるが、単に父の記憶が風化してしまっただけだろう。
「麻倉さんのお父さま、なんですか?」
「わからん。最後に会ったのが昔すぎて、覚えてない」
オレが幼い頃はたしかにいた。
それは覚えている。
だが弟である弘が生まれてすぐ、父を見ることはなくなった。
幼いころは母にその理由を尋ねたりもしたが、答えづらそうな母の姿を見て、父について訊くのはやめた。
今、目の前にいる男が父なのかどうか。
それさえわからない。
「私が見たかぎりでは、あの人はどことなく麻倉さんに似ているように思いますよ」
「たしかに、オレもそんな気がするよ」
帽子の下に見え隠れする男の顔をしっかり観察できたわけではないが、それでも自分や弟に似ている気がする。
しかしだからといって、すぐに父と認められるわけもない。
「でもそれにしては若いだろ。あれは二十代半ばか、多めに見積もってもせいぜい後半くらいにしか見えない」
「ここは七年前ですよ。小学生の麻倉さんのお父さまだとすれば、そう若すぎるってこともないでしょう」
なるほど、二十歳前後でオレが生まれたとすれば一応計算は合うのか。
だとしてもおかしなことがある。
「だけど、ここは七年前だ。七年前の住人である父親が、どうして高校生になった息子に気づけるんだ? あの人にとっての息子はまだ小学生だろ」
「それはたしかにそうですね」
車道側の信号が黄色に変わり、赤へと色をうつす。
もうすぐ、歩道の信号が青になって、自称父はオレたちに近づいてくることだろう。
「ともかく一つだけたしかなことがある」
「なんですか?」
「平日の昼間からふらふらしている大人に、ロクなやつはいないってことだ!」
不審者の正体は棚上げにして、オレは信号が変わる直前に逃亡した。
仮にあれが父を語る謎の人物であるなら、関わりあうのは危険だ。
そしてまた、父だとしても話すべきことが思い浮かばない。
こういうときは逃げるのが正解に決まっている。
父と名乗る不審者は、すたこらと逃げるオレたちを追いかけては来なかった。
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