#15
●
「お姉ちゃんこそ、どうなのよ?」
「業務じゃないセックスのこと?」
「愛ある奴のことよ」リエも苦笑を返した。
エリは少し考えてから、答えた。
「愛があるかどうかは分からない。でも昨夜の大学院生は素敵だったわ」
その言葉の続きを、エリは否定形でつないだ。
「……だけど…」と。
テーブルのマトウダイと仔牛は平らげられ、デザートの焼きプリンをふたりは食べていた。テーブルにサーブされた時、給仕がガスバーナーで表面のカラメルを焼いてみせた。少し香ばしく、そして甘い匂いが立ち込めていた。
その青いガスバーナーの炎は美しかった。過去を呼び覚ますような、妖艶なブルーに見えた。
「何かが足りないみたい」
「何かって?」
「分かんない。分かんないから何か、なのよ」
ふうん、とリエは答えた。
「なんだか時々、男にひどい目にあわされたらどうなるかな、って思うわ」
エリの言葉に、リエは目をそらす。
ふたりの間に言葉にならない時間がよぎる。
それをさえぎるように、エリは口を開く。
「そういうんじゃないわ。あなたが“業務”でするような、ちょっとしたSMみたいな奴よ。縛られたりするみたいな…」
軽いエリの口調に、リエも笑みを取り戻す。
「あのさ、エ子?」
「なに?」
「うんと年上のひと、紹介しようか?」
「どんなひと?」
「そういう“ジャンル”のひと」
ジャンル、という時に、両手の人差し指と中指を揃えて、リエは宙に“ダブルコーテーション”マークを描いてみせた。
「私は『先生』って呼んでる」
「SMの?」
「違うわ」快活に、リエは笑う。「お芝居を教えてくれる先生よ」
●
胸に薔薇の花束を抱えて、舞台の千秋楽を終えた『先生』の楽屋に行ったのは、それから半月ほど後の話だ。
リエに付き添われて、紺色ののれんのかかった先生の楽屋にエリは入った。
初めまして、妹がお世話になっています。
本当によく似たお姉さんですね。
おきまりの挨拶を交わしながら、先ほどまで舞台で見ていたのと全く違う人物であるその『先生』にエリは驚いていた。
舞台は英国の執事の物語だった。
先生は主人公である若い執事を躾ける、年老いた名執事の役を演じていた。
枯れた声、撫で付けにした髪、そして伸びた背筋。先生の存在感は、アイドル俳優の主人公のオーラに消されることなく、際立っていた。
だが、楽屋での先生はスイッチを切るようにその雰囲気を消し去り、リラックスした初老の日本人の男性に戻っていた。舞台にいる時より、はるかに小柄に見えた。
「リエさんはとても優秀な生徒さんなんですよ」と、彼はエリに言った。「私の俳優養成ワークショップの自慢の生徒です」
やめてください、とリエが照れ笑いを浮かべるなか、先生はエリに続けた。
「セリフが上手に言えるとかそういうことではなくて、
「たたずまい?」
「その役の人物の気配をまとうことです」
そうなの?、と少し茶化した姉の口調で、エリは妹に聞いた。リエは照れて手を左右に振ってみせた。
「台本を覚えるのは役者の仕事です。そこに感情を込めるのは役者の技術です。でも、何もセリフがない瞬間に、その役を演じきる。これは才能がなければできない芸当です」
「先生、褒めすぎです」リエは顔を赤くして恐縮する。
「それに私、そんな能力あったって、所詮表に出られない職業だし」
その言葉に、先生の目つきが変わる。
「リエくん。そういうことは口に出してはいけないよ」と、静かに告げた。「きみの職業は多くの男性の癒しと活力になる大事なお仕事だ。私はきみがそれにどれだけ誇りを持っているかも知っている。嘘でも自分を
先生にしては長い言葉を、おだやかに彼は告げた。
「……はい、先生」
リエも素直に先生の言葉を飲み込んだ。
リエのそんな姿を見るのは久しぶりだな、と姉のエリは思う。いつの間にかこの子は、尊敬できる自分の師を持ったのだ、と思った。
「偉そうなことをいっても、私もひとには言えないことをうんとしているのだけれどね」
先生は、そう言って小さく笑った。
「お姉さんにも話したのかな?」と、先生はリエに聞いた。
「その話、今度お酒でも飲みながら聞かせていただけますか?」
と、妹の返事を待たず、エリが答えた。
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