#20





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「不思議なオファーだと思ったよ」と、先生は言った。

性行為sexなしで、ただ縛るだけなんて」


 箸の先でちくわぶを切り分けながらいったその言葉に、エリは黙っていた。


「どうだった? そんな風に縛られて」

「不思議な気持ちでした…」と、エリは言う「先生が、本気じゃなかったからかな?」

「本気じゃない?」

「だって、私のこと、そんな目で見てませんでしたよね?」

「女性を責めるような目?」


 エリは頷いて、目の前にあったお猪口ちょこを手に取った。

 目の前ではボウタイをきりりと締めたバァテンダーが、菜箸でおでん鍋からロールキャベツを取り出していた。つままれたロールキャベツから、金色のだし汁が流れる。若緑のキャベツに、ピンク色のベーコンを下に敷いて、白い干瓢が腰帯のように巻かれている。


 バァテンダーは、小皿に乗せたロールキャベツを、エリに目配せで手渡した。


「それは、きみがそういうことを望んでいるわけではなかったからだよ。ちがうかな?」


 ロールキャベツの湯気が、エリのまえに立ちのぼる。おでんだしでやさしく煮込まれた、ロールキャベツのいい匂いがした。


「ええ」とエリは答える。


 そして取り皿に横たわるロールキャベツに箸を伸ばした。やわらかに切れるそれを半分の大きさにした。取り皿に、キャベツのなかの肉汁がこぼれ、金色の泡が広がった。


 慌てて会話を進めなくともよいという雰囲気は、先生のかもす大人の余裕からくるものだろう。エリはそれを嬉しく思った。


 ロールキャベツを口に含む。

 さまざまな素材が複雑に混じりあって調和した、奥行きの深い味わい。その調和に、かすかなナツメグの刺激を感じる。嬉しい気持ちがさらに高まる。


「おいしい」

 と、素直な言葉をエリは口にした。

「良かった。それはこの店の二番目のおすすめだからね」

 先生の声にも笑みがこもる。

「一番のおすすめは何ですか?」

「きみの妹さんが大好きだったものだよ」

 そう言って先生は、バァテンダーに頷いた。

 少しも話を聞いていない風情のバァテンダーは、たが何も言わずに牛すじを取り皿によそってくれた。

 余計な口をきかず、エリもまた黙ってそれを口にする。

 さっぱりとした出汁で煮込まれた牛すじは、とろけるように柔らかく芯まで味が染みている。牛自体のコクのある味わいの奥に、かすかに海の香りをかぐ。

 それはカツオや昆布といった普段の出汁の奥に潜む、隠し味だ。

「もしかして、貝出汁をとっていらっしゃいますか?」

 エリは気になって、バァテンダーに尋ねる。

 端正な顔つきのバァテンダーは、小さく微笑むと眉をあげ、肯定とも否定ともとれる表情を作った。申し訳ございませんが、そこは企業秘密とさせてくださいませ、と慇懃なお断りの笑顔を作ってみせた。エリもそれを微笑で受け止めた。


『おでんバァ』という不思議な風情のある店を指定したのは先生だ。

 前回、あの海の見える別荘で会ってから、二週間が経っていた。エリから先生に連絡を取り、食事に誘ったのだった。

 旧市街のランプ通りから一本入った路地にその店はあった。長く大きな一枚板を磨き上げバァカウンターとしているが、テーブル席もあり、おでんをはじめとした食事メニューも豊富なバァであった。


「縛られることに、興味がありました」

 長い寄り道の末に、エリは話を本筋に戻した。「でも、そういうのをしてくれる人に巡り会うことも、探すようなこともしてきませんでした」

 先生は、ロックグラスに入れたスコッチウィスキーを一口、舐めてから言った。


「それが何故、いまになって私に、と尋ねても?」

「SEXには、積極的なタイプだと思ってきました。自分自身を」


 バァテンダーには聞こえている。でも彼は絶対に反応しない。エリにはそれがわかった。だからあえて、隠語で言葉をぼかすような真似はしなかった。先生にはそういう方が良い、と心の中で気づいていたから。


「でも、これまでずっと、そういう自分を演じてきた気がします。すこし淫らで、奔放な。男性の望むような女であることを。妹が、リエが業務でしているような。

 けど、本当に自分が望んでいるのはそういうのじゃない気がしたんです」


 先生は、何も答えず、こんにゃくに辛子をつけて、口に入れた。

 エリは告白を続けた。


「妹に先生を紹介されて。でも私はSMとかそういうことには興味がないんです。ただ、物理的に縛られてみたかった。身動きの取れない感じを体感してみたかったから…」


 そこまで話すと、エリはグラスに入った吟醸酒を口に含んだ。清冽な米の香りが、鼻を抜けてゆく。


「…すごく、感じてました、私。あの時、びっくりするくらい、感じてました」


 先生は目を閉じて、ゆっくり息をした。時間がゆっくり、冷えて固まるようだった。


「――もうすぐ、私は死ぬからね」




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