#21
エリは驚いて、先生の方を見た。
先生はバァカウンターの向こうに並んだ、スコッチと焼酎と日本酒の酒瓶たちに話しかけた。
「―――癌なんだ。
元気そうに見えるけど、多分あと半年。酒は飲めるけど、おでんのような柔らかいものでなくては、胃が受け付けなくてね」
微笑する先生。
「次の機会があるかどうかは分からない。
でも、あの時、年若いきみを抱きたいと、本気で思ったよ。きみが本気で感じているのもハッキリ分かった。
ふふ、と先生は小さく笑って、グラスのスコッチを飲み干した。
「…次の時は、ランジェリーを外して、縛っていただけますか?」
エリは言った。言葉が、なめらかに口をついて出て言った気がした。
先生はこちらを向いて、「きみさえよければ」と返した。
そしてバァテンダーの方を向いて、「鰯の丸干し」と先ほどとは全く違う明朗な声色で言った。
「消化に悪くありませんか?」
いぶかしがるエリに、先生は笑顔を見せた。
「嘘だよ。癌なんて。芝居だよ」
「ひどい!」
ふふっ、と咳払いのように笑って、先生は続けた。
「きみの話を聞いていたら、そんな風に深刻な自分じゃなければ、きみを抱く資格などないのではないかと思ったんだ」
何を言っているのか、と思った。
自分がこんな真摯な告白をしたのに。
今まで男性に、こんな風にからかわれたことなどなかった。今まで誰も、エリをこんな風に扱う男など、現れなかった。
カッとしながらも、エリはそこに引っ掛かりを感じた。
男?
この初老の俳優に、いま自分は初めて、『男性』を意識した。
今までは、リエの知人であり、縄師であるとしか感じてこなかった。だから自分は彼の独り住まいの別荘にだって、女ひとりで出かけて行けたのだ。
しかし今、エリは彼を、自分を抱くことになる男性として、初めて意識した。自分の自由を奪い、いいように操り、巧みに身体を刺激しては、痛みと快楽を与えてくれる相手、と。もしかしたら心を許し、胸に秘めた何事かを共有できるかもしれない相手、と。
エリの中で、何かが切り替わった。カチリと音を立ててしっかりとスイッチが入る音が聞こえた。
「普段なら、このカウンターを一度叩いて、ここから立ち去る場面です」
先生は眉をあげ、おどけた表情を作った。
「でも、老い先短いあなたの願いなら、聞かないわけにはいきません」
微笑。
「―――抱いてください。あなたにそうされないと、私は先に進めない気がします」
●
ジムのカウンターでワーカムを出し、タッチポイントにかざしてチェックアウトする。水に濡れた髪はきちんと乾かし、来た時と同じような身支度に整えた。
「おつかれさま」
と、声をかけてくれたのは、先ほどプールサイドでエリを見ていた女性の職員だ。
「左足、今夜少し痛むかもしれないわ」と、彼女は言った。
「おかしい泳ぎ方してた?」
「少しだけ、バランスが崩れてたかも」
同性、同世代のふたりは、気心の知れた友人同士の関係でもある。
「わかった。ストレッチの必要があるってことね?」
「それが賢明ね」
そういって片手を上げた彼女の肩越しに、ロビーに置かれたテレビ画面が目に入った。
音を消して放送されているニュース専門チャンネル。どこかの国の紛争に、国連が介入している、と伝えていた。
そこに、あの男が写っていた。
まるで、奇跡のように。
エリの中で世界は時を止め、音を失った。
何人かのスーツ姿の国連職員のなかで、ひときわ大柄でエラの張った、いかめしい顔をしたあのモンステラの男が写っていた。
「どうかしたの?」
ジムの友人が声をかけてくれる。
エリは急激に気圧が変わり、地上に引き戻されたことを知った。
「あ、いまあのテレビに知り合いが。ねぇ、テレビの音を聞かせてくれる?」
友人はカウンターの中からリモコンを操作してくれた。
「――お伝えしました通り、昨夜国連の難民高等弁務官の一団が旧ソウル入りしました。朝鮮共和国政府と一部反抗勢力による内乱の恐れを警戒し、一般市民が旧ソウルを離れつつある状況を警戒しての行動だとの説明がなされています。
では次のニュースです……」
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