オレンジ色の夕立

#22





 旧市街のとあるビルの最上階に、そのレストランはあった。

 コロニアル風の柱、飾り窓、タイル貼りの床など、古き良きキューバの首都ハバナに実在した

 リストランテをイメージしたしつらえが特徴だった。ビルの最上階だというのにパティオ(中庭)と浅いプールを作り、それを囲むように客席が並べられていた。


 その店のの時間は、なんといってもディナーの開店前だ。

 時間でいうと、午後四時半。まだ明るい時間帯がよかった。日差しが、パティオのプールに注いで、水面みなもがキラキラと輝いている頃合い。その水を反射してランダムに光る金色の波紋が、店内の白い漆喰塗りの壁のあちこちに揺れている。


 エリのテーブルに置かれたグラスにも、その光は届く。清潔な白いクロス。ひっくり返して並べられた大小のグラス、整理されたシルバー。テーブルのセンターには一輪の可憐な桔梗ききょうの花が飾られている。


 クラッシュドアイスにチンザノを注ぎ、ペリエで割った軽い飲み物をエリは飲んでいる。

 近づく夏の宵の気配。ひんやりした飲み物の軽やかさ。こころは浮き立つ。


 顔馴染みの給仕長は糊のきいた白いシャツと黒いヴェストを着込み、黙々とディナータイムの開店準備をしている。厨房からはコック達が今夜の仕込みに追われる音がする。

 そして―――、


「もっと顔を見せなさい」


 背後から、野太い声が聞こえた。


「忙しいのよ、こう見えても」

 振り向かずにエリは答えた。

「生まれついての自由人のあなたが、そんな一般人の言うようなセリフを口にするものじゃないわ」

 声は、軽く笑った。

「―――マダム、久しぶり」

 エリの席の差し向かいに、その大柄の女性が座った。

 エリは紺色のノースリーブのシンプルなドレスを着ていた。マダムと呼ばれた年上の女性はシックな黒いスーツ姿だ。


 マダムがやってきて場の空気が締まり、店のテンションが上がってゆく。18時のドアオープンに向けて、あちこちから威勢の良い声が漏れ聞こえる。

 エリはそんな、いま目覚めんとするこの雰囲気が大好きだった。


「元気そうね」

 エリは笑顔をみせた。

「心配種のあなたの顔をあまりみていないからよ」

 マダムは片手を上げた。すぐにウェイターが近づいてきて、空のグラスをサーブした。彼はそこにペリエを注ぐ。

 彼女はそして、皮肉げな笑みを見せると、エリに向けてグラスを傾げ、乾杯の仕草をしてみせた。エリもそれを受けて、同じように小さくグラスを傾けた。


「今日は、何なの?」

「友だちと、待ち合わせさせてもらってる」

 その言葉に、マダムの右の眉が上がった。

「友だち? いい男なのね?」

「マダムの前に出しても恥ずかしくはないかな。

 でもほぼ初対面よ」

 マダムは笑った。

「変わらないのね。まだ開店前なのよ」

「いつでも私を迎えてくれる。そう言ったのはマダムと給仕長チーフよ」

 エリの生意気さにマダムは苦笑した。「好きになさい」

 マダムのもとに出入りの業者が伝票を持って現れる。マダムはグラスのペリエを飲み干すと、忙しそうに席を立った。

「今度はきちんとディナーを食べて行きなさい」と言い残して。


 この店にエリが居着くようになってもう20年近くになる。最初の頃、彼女は未成年だった。

 資産家の父が幼い頃からここによくエリを連れてきた。そして彼女が18の歳にこの店を、というより旧市街のこの店を含むビル自体の権利書を与えられた。快活なリエには別の、新しいファッションビルがあてがわれた。

 その父と母があの忌まわしき東京でのテロリズムの犠牲で亡くなってから、15年になる。


 ずっと愛してきたこの軽い飲み物の、汗をかいたグラスの向こうに、ここでの思い出のいくつかが通り過ぎてゆくようだ。


 ボーイフレンドと口論をして、グラスの飲み物を頭からかけた後、「まるで映画ね」とマダムに腹を抱えて笑われたこと。


 父親ほども年の離れたボーイフレンドや、彼女の当時の生活の全てを支えてくれていた恋人に罵詈雑言を浴びせかけ、公衆の面前で彼らを激昂させたことも一度や二度ではない。

 でも、男たちは知らぬ間にエリの後ろに立った、腕っ節の良いコック達に睨みつけられ、言葉もなく勘定を払って店を出ていった。


 この店は、そんなエリを一度たりとも煙たがったり、つまみ出したりはしなかった。それはエリが実質的なオウナーであるから、という理由だけでなく、ここがエリにとっての“ホーム”だからであった。


 新市街の教会で行われた両親の葬儀の後、双子の妹のリエは当時の恋人に肩を抱かれながら泣き崩れるようにその場を去った。

 喪主であるエリは気丈に市の有力者が集う参列者への挨拶を済ませた後、ここへやって来た。

 裏の通用口から店に入ると、給仕長チーフは何も言わずに厨房の奥へ通し、折り畳みのパイプ椅子に座らせて温かいスープを飲ませてくれた。


「いつでもここへ戻ってきていいのよ。ここがあなたのホームなのよ」


 フロアの仕事の合間に顔を出してくれたマダムが、エリに声をかけた。

 ボロボロとこぼれる涙の味と、温かなスープが混じって、エリにとっての忘れられない塩辛い味になった。


 その数年後。

 当時やっていた仕事で大きな賞を取ったことがあった。授賞式の会場で祝福の嵐を受けた後、このビルにリムジンで乗りつけた。肩の大きく開いたドレスのまま、店の奥のアップライトピアノの上にクリスタルのトロフィーを置いて、何時間もピアノを弾き続けた。客も、給仕達も、マダムも、エリとその歌うようなピアノに酔った。


 狼藉を働いた少女時代を過ぎ、分別もついた大人になっても、エリはこの店の子どもだった。




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