あの、ワンピース

#9




『それでは、緊張が続く朝鮮半島情勢です。朝鮮共和国政府は昨夜、旧ソウル市で活動していた元俳優で民衆指導者と言われているユ・アリ氏を拘束したと発表しました。先月の反体制派テレビ局の閉鎖とともに、共和国内の圧政が懸念されています』


 かけっぱなしにしているラジオからは、女性アナウンサーの朝のニュース番組が流れている。不穏なニュースを聞き流しながら、エリはエプロンを身につける。


 世界がどうなろうとも、きちんとした朝食を摂る。それが彼女の流儀だ。


 流しでサッと手を洗い、小松菜を根元側からかるく湯がく。緑の鮮やかな色が際立ったら、流しに湯を捨てる。その時に刻んだ油揚げに、捨て湯をかけ、同時に油抜きを。小松菜は水にさらし、粗熱を取る。

 少量のだし汁に刻んだエノキと油揚げ、若干の調味料を入れ、小鍋でサッと火を通す。それを小鉢に取り、氷を張ったボウルの中で、小鉢ごと冷やしておく。


『それでは次のニュースです。昨夜、大阪府堂島のビルで発生した火災は…』


 その間に生姜をひとかけすりおろし、大葉とミョウガをきざむ。

 同時に昨夜の残りの味噌汁に火をかけ、かるく温めなおしたら、そこに刻んだワカメを入れる。一晩寝かせた大根はほのかに味噌が染みて、ワカメの青さと良いコントラスト。


 冷蔵庫から半丁にパックされた絹ごし豆腐を取り出し、切子の鉢にそっとおく。そこに刻みショウガと大葉とミョウガを散らす。紺色の切子硝子の皿に、白い豆腐に大葉の青、ショウガのイエローとミョウガの茶色。


 最後に小鉢に湯通しした小松菜を刻んで入れ、そこへ冷えただし汁と油揚げ、エノキの混ざったつゆをかける。かんたんなおひたしだ。


 炊飯器に炊き上がった米は、北海道の友人が送ってくれたものだ。釜を開けると甘い匂いとともに、白い蒸気が立ち上る。


 短い時間で手際よくこしらえた朝食を、エリはひとりで食べる。


『いや、半島、ちょっとマズいことになってきましたね』

 ラジオからは、真面目な女性アナウンサーの定時ニュースの後に、朝の帯番組の男性DJのバリトンボイスが流れる。

『旧北朝鮮寄りの新政府がかつての独裁のような統治を行わない、とコメントして半島に統一政府ができて一二年。それからずっと続く内戦。

 民族統一は美しいスローガンだとは思いましたが…。朝鮮半島、心配です。

 では曲に行きましょう。冷戦ただなかの80'sのこの曲。懐かしい。ティアーズ・フォー・フィアーズで、ルール・ザ・ワールド』


 ミドルテンポのゆるいグルーヴの曲がラジオから流れてくる。

 エリは箸を休めずに朝食を摂る。

 淡白であっさりとした味付けの食事であるが、噛むごとに身体が目覚めてくるのを感じる。


 食事の後、皿を洗ってから家の掃除にかかる。

 エリが住むこの家は、築一二〇年の平屋の古い日本家屋だ。ふすまを外せば居間も寝室もひとつの広間になってしまう造り。それは、小さな漁港に面したこの家が、かつて地元の漁労長の住まいであり、折に触れて集まる漁師たちの宴会に対応できるようになっているからだ。

 諸事情によりエリがひとりで住むようになったこの家には、昔日のような賑やかさはなく、ただ静かな生活の気配だけが漂っている。


 地面から垂直に伸びる太い柱は天井のはりを支える。その黒光りする重厚さは、この家を長い年月にわたり、しっかりとこの地に根付かせてきた。

 掃除はただハタキやホウキでホコリやチリを除くだけでなく、その柱にさっと雑巾掛けすることも行われた。年に数回の重曹による柱磨きのほかはこうして、絞った雑巾でキッチリ磨き上げる。それが、柱の輝きを維持できるコツだ。


 旧市街の外れにあるこの片田舎の漁師の家は、まもなく市の教育委員会から文化財の指定を受ける予定となっている。エリ自身がいつまでここに住むかは分からないが、少なくとも自分が住む間はこの家をキチンとした状態で維持するのだ、と彼女は考えている。


 掃除が済むと玄関の鍵をかけ、バックを持って裏庭を抜け、狭く急な石の階段を降りる。港から一段上がった石積みの土台のうえに建てられたこの家。そのガレージは、その石積みの土台を掘り込んで作られている。シャッターを開け、エリはそこから真っ赤なイタリア製の小型のクルマを出した。


 窓を開け、六月の風をクルマの中に呼び込みながら、街に向け彼女は走り出す。マニュアルシフトのギアを小気味よくつなぎながら、海沿いの県道をその赤いクルマは走ってゆく。




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