#10





 ●





「マティニを。ロックスタイルで、オリーブ抜きで」

 初めての店だと言っていたのに、手慣れた頼み方だ。

 そう思ったから、

「手慣れているのね」

 と、男にエリはそう言った。


「面倒なだけさ」

「面倒くさがりなの?」


 そう問うたエリに、男はチラリと目を送った。


「――時と場合による」


 サーブされたロックグラスを、彼は手に取る。

 バァルームの薄暗い照明の中、その骨張った手に、エリは見入ってしまう。無骨で、たくましい腕だ。シルバーのメタルストラップの腕時計がよく似合っている。


「いまは、その時なのね?」


 時計のストラップには、いくつかの傷がついていた。メタルストラップにつく傷だ。それをはめていた腕だって無事ではあるまい。何があったのだろう。その傷が、どんな経緯でついたのか、知りたかった。

 深く澄んで、静かにこころを充たす男の声を、もっと聴きたかった。


「わたしを口説く時は、面倒くさがらないでね」


 そう、言ってみた。

 不意に、言葉が唇から出ていった。そんなつもりはなかったのに。


 男は初めて、こちらを向いた。

 ゆっくりと、首を巡らし、こちらに向き直った。

 深い彫りと、エラの張った顎。薄い唇、ウェービーな髪。

 その髪の感触はどうだろう。柔らかいのか、それともこの人となりと同様に、ゴツゴツと硬いのだろうか。


「口説く? そんな面倒なこと、するものか」

 男の唇が皮肉げに歪んだ。


 そして、断ることを想定していない口調でこう告げた。

「―――俺の部屋に来い。ココの9階だ。このマティニを開けたら、行くぞ」


 それが、今にして思えば、口説き文句だったのかもしれない。

 そしてエリは、その男に抱かれた。

 瞬く間に追い詰められ、その熱いエキスを胎内に受けた。

 それを思い出すと、今でも胸が苦しくなる。





 ●





 旧市街の坂道。

 カフェや洋服屋やレストランが並ぶ華やかな通り。

 赤信号で、エリの赤いイタリア車が止まっている。

 エリは何気なく居並ぶ店に視線を投げる。

 それがあるセレクトショップのショーウィンドウに止まった。

 プリント柄のワンピースのサンドレスが、そこに飾られていた。

 薄いグリーンの地に、濃淡のある紺色で、見覚えのある熱帯植物の葉達が、大胆にあしらわれていた。


 モンステラ。


 エリは、誰かに抱かれてもいいな、と思った。

 今夜、誰かに抱かれなくては…、と。




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