#34
凶暴な森の獣が、処女にだけは手出ししないというヨーロッパの伝説のように、とてもジェントルでやさしいキスだった。そしてそこには、官能の気配が微塵も感じられなかった。
エリは顔を離そうとした柏木の首に手をかけ、口づけのつづきをねだった。
柏木は唇を寄せ、舌を伸ばしてきた。
しかし、そこには情熱の
エリは戸惑った。
なぜ彼が、セックスの前だというのにそんなキスをするのか。
そしてもっと言えば、最初の時の高圧的な態度が昨日から少しも感じられないのは何故なのか。
昨夜のセックスが終わり、彼と離れた間じゅう、エリはその疑問をずっと、飴を舐めるように心の中で転がしていた。
確かに昨晩、エリを抱いたのは柏木だ。その肌具合の良さ、身体の相性の良さはほかの誰でもない。
しかし、あの夜、奪うように犯すようにエリを抱いた柏木の、すさみ具合と奥底に秘めた不思議な悲しみはそこには少しも感じられなかった。ただ単に、身体の相性が良いだけなら、ここまで彼に執着することはなかったろう。
女性として、丁寧に扱われたことは嬉しかった。セックスも、気持ちの通い合ったとても素敵なものだった。しかし、何かが足りない。
ジェントルなキスをした柏木は、つかの間、そんなことを思い出していたエリの手を取った。
何をするつもりだろう、といぶかる間もなく、彼はその手を自分の股間に当てさせた。
そこは、昨日とはうって変わった、柔らかな肉塊の気配だけがあった。
どういう意味?
エリは言葉にせず、ただ、戸惑っていた。
「たぶん、今日は…勃たない…」
力なく、柏木は言った。
エリは驚いた。しかし反射的に、彼のプライドを守らねば、という思いも抱いた。
「あなたも疲れているのよ。ごめんなさい、私ばかり求めすぎ―――」
その言葉を言い終える間もなく、柏木はエリをかき抱いた。
「違うんだ。おれも、君を抱きたい。でも…」
抱きしめられたまま、部屋の時間がゆっくり固まっていった。
窓の外の往来の音だけが、しずかに聞こえる。
時が止まり、言葉が消えていった。
何も言えない、何も口にできない空気が、部屋を支配していた。
「―――トラウマなんだ。過去の。明るい部屋では…君を抱けない」
柏木の絞り出すようなかすれた声が、エリの耳を通り過ぎてゆく。
あんなに大きく、強く、自信に満ちた男の、あまりに脆い一面を垣間見た。
その背後に秘められた彼の暗いストーリーを感じつつも、エリは自分を抱きとめる柏木を、逆に力強く抱いた。その背中をそっと撫で、ごわごわとした髪に触れた。
そして、言った。
「気にしないで…。今夜はこのまま眠りましょう。
あなたも傷ついているのね。たくさん。
私もそう。いつか話すわ」
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